森田 実 政治評論家
静岡県伊東市出身。伊東西小、伊東北中、相洋高校を経て東京大学工学部鉱山学科卒業。 尚、弟も東大出身であり、地元伊東市では名家として知られている。 在学中に日本共産党に入党し、香山健一、島成郎、生田浩二、青木昌彦らとともに全日本学生自治会総連合の指導部を形成した。破壊活動防止法反対闘争(1952年)、原水爆禁止運動(1955年)、砂川闘争(1957年)、安保闘争(1958年〜1960年)などに携わる[1]。その後、日本共産党幹部と殴り合いを演じて共産党を除名されると、1958年、多くの学生党員らと共に共産主義者同盟(ブント)を結成し、主に労対関係の任に当たっていた。その後、日本評論社出版部長、『経済セミナー』編集長を経て、1973年からフリーの政治評論家として活動。東日本国際大学客員教授も務め、2015年6月に中国山東省を訪中団団長として15名の団員で訪問、山東大学より「名誉教授」を贈られる。
2004年7月、著作本『公共事業必要論』の記念講演会を二階俊博が代表を務める自由民主党の派閥「新しい波」が主催し、「新しい波」から寄付も得た。アメリカ発の新自由主義に基づく構造改革路線をとった自由民主党を激しく批判しており、雇用・社会保障を重視した修正資本主義路線に戻すべきだと提言している[2]。小沢一郎政経研究会で講演したこともある[3]。
思想・主張[編集]
政治評論家として独立以来、ほぼ一貫して保守本流である自由民主党宏池会(旧宮沢派)を支持し、その「経済重視、平和外交」路線を支持してきたが、2003年前後の自由民主党や宏池会の分裂後は、自民党内でもそれまで親しくなかった亀井系を支持するなど方針転換するに至った。かつて、宮澤政権誕生前夜には、金丸信の暗躍を正面から批判する数少ない評論家として活躍し、当時、三塚派成立の際に中堅として尽力した小泉純一郎についても、「正直で信頼できる人間」「竹下派支配に立ち向かう信念ある政治家」「21世紀初頭の総理候補」と激賞している。宮澤支持や小泉への好意と、金丸・小沢一郎による「闇支配」批判の明確な姿勢は、当時の森田の著作(徳間書店『政変』など)でも明白である。
現在の森田のスタンスは、経済においては「修正資本主義」に近く、政治・外交においては「平和主義」「反米[要出典]・対アジア協調」「9条護憲」の立場を採る。日中友好論者でもあり、台湾独立・靖国神社公式参拝には反対している。政治評論家としては珍しく、時々の政治家・政党に対する支持・不支持を明確にしており、亀井静香や野中広務、綿貫民輔、鈴木宗男といった、小泉政権時の郵政民営化法案や対米依存政策における自民党内の「抵抗勢力」、河野洋平、加藤紘一、二階俊博、福田康夫ら親中派の支持者である。とりわけ、綿貫に対しては「日本一品格のある政治家」と最大限の賛辞を送っている。鈴木に対しても、かつては激しい批判を加えていたが、現在では評価に転じている。森田が最も評価していた政治家は、かつて小沢一郎の側近だった熊谷弘で、朝日ニュースターに出演した際には「真の改革者は熊谷さんだけ」と絶賛していた。
21世紀以降の政局では、郵政民営化に代表される新自由主義路線に反対の立場で、小泉政権への批判を展開していた。公共事業は地方活性化のためには必要不可欠な「善」であると主張する。談合についても、日本の古き良き慣習であると肯定し、談合批判は米国の陰謀であると主張する。その小泉の後継者である安倍晋三に対する批判はさらにヒートアップしたもので、北朝鮮が2006年7月5日、ミサイル発射実験を実施した際には、日朝平壌宣言に明確に違反した北朝鮮への批判は全くと言っていいほど行わず、ひたすら安倍(当時は官房長官)への批判に終始した。また、北朝鮮による日本人拉致問題についても、「対米従属助長のための陰謀」と断言している。そのような小泉・安倍政権批判への反作用として、以前は厳しく批判していた小沢一郎が民主党代表に就任すると、「『小沢一郎』入門」なる書物を書き下ろして大絶賛した。しかし、その小沢に対してもISAF参加構想を発表した折には平和主義からの逸脱であるとして厳しく糾弾し、大連立騒動やそれを巡ると民主党代表辞任のゴタゴタを起こすに及んで激しく批判(ただし背景としてウェブサイト上でアメリカ共和党のエージェントによる小沢への圧力を指摘)。[要出典] 以後は小沢民主党批判に転じ、2008年12月に出版された「政治大恐慌 悪夢の政権交代」(ビジネス社)では、小沢民主党のままの政権交代や大連立に警鐘を鳴らして明確に「脱小沢」を説いている。
民主党による政権交代が実現した後も小沢に対する批判は続けており、2010年には陸山会の政治資金規正法違反事件を巡る疑惑に対して詳細な説明をしようとしない小沢に「やり方があまりにも姑息で、汚らしい」「独裁者が怖くて民主党議員も小沢を批判できない」などと断じている[4]。その一方で、2011年9月26日に出された石川知裕ら3人への有罪判決については痛烈に批判している。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%AE%9F
かなり年配の方ですが、いろんな考えを持っている方かと思います。
いい感じの方かと思います。
細川隆一郎 政治評論家
概説[編集]
福岡県小倉市(現:北九州市)生まれ[2]、熊本県出身。東京府立四中(現:東京都立戸山高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学位は政治学士(早稲田大学)。
憲法改正論者であり、「マッカーサーの押しつけ憲法だ。自主憲法を持たなければ独立国とはいえぬ。」(『毎日新聞』2009年10月7日朝刊、26面より引用[3])が信条であった。 内外問題研究会」を主宰していた。
毒舌の話術を生かし、ワイドショーのコメンテーターとして活躍し、タレントとして政治と関連の薄い分野でも活躍した。1996年6月11日からはタレントとして吉本興業に所属したこともあった[4](1999年とするメディア[2]もあったが、誤り)。
来歴[編集]
- 1919年 - 1月1日:誕生。
- 1942年 - 早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
- 1942年9月 - 大阪毎日新聞社東京本社(『東京日日新聞』発行元。のちの毎日新聞社東京本社)に入社[3]。
- 同年10月:陸軍東部通信本部に配属されて硫黄島へ出征する。
- 1945年9月1日 - 新聞記者として復職。毎日新聞東京本社経済部、政治部記者として勤務。
- 1963年 - 神戸支局長着任。
- 1966年 - 東京本社政治部長就任。政界汚職粛正のため、「日本政治への提言」を半年にわたり連載。
- 1967年 - 前年の黒い霧事件の時に「日本政治への提言」を連載していたことで「日本新聞協会賞」を受賞[3]。
- 1968年 - 東京本社編集局次長就任。
- 1970年 - 中部本社編集局次長就任。
- 1973年 - 東京本社編集顧問。年末、同社定年退職、以後、政治評論家となる。
- 1980年 - 6月12日早朝に大平正芳首相の死去を、逸早く文化放送の自らの番組内で伝えたことにより「文化放送社長賞」を受賞。
- 1986年 - 『岸信介伝』、『政争・ニューリーダー論』の著書で第6回日本文芸大賞特別賞を受賞した。父の日にちなんで毎年日本で最も理想的お父さんを選ぶイエローリボン(ベストファーザー)賞を受賞。
- 1988年 - 日本きものコンサルタント協会より和装文化賞受賞。
- 2003年 - 脳梗塞を発症し、発見が遅れたため左半身麻痺が残り、元来からの持病であった黄斑変性が進行して失明した。頑固な性格のため、実際の症状で要介護認定が最高位にも関わらず、介護認定の面談で実際より重度でない事を告げ、かつ仕事を続ける事を頑なに守ったため、娘の細川珠生が、著作の口述筆記や一般紙の読み聞かせ等のサポートをしていた[5]。
- 2009年8月25日 - 老衰のため死去。90歳没。告別式は2009年9月1日に東京都大田区の池上本門寺で営まれ、親交が深かった鳩山由紀夫民主党代表(後の首相)が弔辞を読み上げた。また同年9月28日には、お別れの会が東京・内幸町の日本プレスセンターで行われ、鳩山首相、中曽根康弘元首相も出席した。最後の仕事は死去した三日前に放送されたラジオ番組であり文字通り生涯現役を貫いた。
エピソード[編集]
- 趣味は小唄、日本舞踊、空手、ゴルフ、スキー、水泳、アイスホッケー、野球等スポーツ全般。
- 豪放磊落を売っている一方で、対談で相手が強気に出られると逆に宥めの側に回ったりするところもあった。
- 早稲田大学時代は空手部の主将を務めていた[1]。
- 72歳くらいのときに霊能士に「100歳まで政治評論をしている」といわれた。
- 政治すごろくゲーム「政界立志伝」の監修をしたことがある。
- 1980年代〜1990年代にはテレビのバラエティ、クイズ番組に多数出演していた。
- かなりの数の評論家が首相を辞任して数年後から高く評価しだしていた田中角栄について自著「総理の通信簿。」ではそれまで以上に政界に金権政治をもたらしたとして唯一総合評価で1を付けている[6]。
- 反共組織として擁護していたが「皇太子に祝福(合同結婚式)を受けさせる」と統一教会のトップの文鮮明に言われたことについて「まったく話になりません。・・皇室を侮辱するものです。・・失礼極まりない、余計なお世話もいいところです。」と文の不敬に激怒している[7]。
家系[編集]
戦国大名・細川忠興と細川ガラシャ(明智光秀の娘)の長男・忠隆(廃嫡)の子孫で、旧熊本藩一門家臣・細川内膳家(細川男爵家)の分家・牧崎細川家の一族である。幕末の内膳家当主忠顕の長男・隆虎は、明治期に分家して通称「牧崎細川家」と呼ばれた。隆一郎の父・隆志は隆虎の次男。政治評論家として有名な隆元は三男(隆一郎の叔父に当たる)。ちなみに内膳本家の家督は、忠顕の兄忠壽の長男・忠穀が継ぎ男爵に授爵されている。子供に政治ジャーナリストの細川珠生、テレビ朝日報道局デスクの細川隆三がいる[1]。
レギュラー番組[編集]
- RFラジオ日本『細川隆一郎のだまっちゃおれん!』
- RFラジオ日本『珠生・隆一郎のモーニングトーク』(1995年 - 2009年) ※娘の珠生と出演。
- 新日本放送(現:MBSラジオ)『ヤンマー日曜放談』(パーソナリティ)
- フジテレビ『夕やけニャンニャン』(水曜日レギュラー)
- 日本テレビ『ズームイン!!朝!』(「細川隆一郎の健康一番!」コーナー)
- 日本テレビ『ルックルックこんにちは』(コメンテーター)
- 日本テレビ『なぜなぜダイヤル!?』(パネラーとして政治関連の疑問を担当)
- テレビ朝日『なうNOWスタジオ』(コメンテーター)
- TBS『新伍のお待ちどおさま』(コメンテーター)
- ABCテレビ『桂三枝のにゅーすコロンブス』(コメンテーター)
- よみうりテレビ『2時のワイドショー』(コメンテーター)
- テレビ東京『細川隆一郎の天下御免!』(司会)
- テレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』[2](初期のレギュラー)
著書[編集]
- 『背骨を伸ばして』(文化放送出版)1980年
- 『細川隆一郎の健康一番』(日本テレビ出版)1981年
- 『細川隆一郎の健康一番②』(日本テレビ出版)1982年
- 『鈴木さん総理をすぐおやめなさい』(IN通信社)1982年
- 『図太く生きる男の本』(文化創作出版)1982年
- 『吉田茂の人間秘話』(文化創作出版)1983年
- 日本宰相列伝 20巻『岸 信介伝』(時事通信社)1986年1月 ISBN 4-7887-8570-6
- 『政争 ニューリーダー論』(山手書房)1985年
- 『燃える政治の舞台裏・細川隆一郎直撃対談集』(全貌社)1983年
- 『細川隆一郎・中谷武世直言集・政治改革のすすめ』(山手書房)1983年
- 『細川隆一郎のかみなり人生指南』(講談社)1986年
- 『頭のいい人悪い人がわかる本』(青春出版社)1986年
- 『細川隆一郎おんなを語り政治を叱る』(IN通信社)1988年
- 『まかせてみては?土井連合政権に』(スコラ) 1989年10月 ISBN 4-7962-0005-3
- 『オトコの復権』(東急エージェンシー出版) 1990年2月 ISBN 4-924664-75-8
- 『バチあたり日本はどこへゆく』(共著)(東急エージェンシー出版)1992年
- 『細川隆一郎の頑固一徹のススメ』(東急エージェンシー出版)1993年
- 『細川隆一郎vs田中美穂 病める日本を癒す』(共著)(IN通信社)1996年
- 『笑って笑って大往生』(実業の日本社) 1996年11月 ISBN 4-408-13288-8
- 『総理の通信簿 歴代宰相の器を問う』(テラ。コーポレーション) 1998年4月 ISBN 4-925001-38-8
- 『怒りを忘れた日本人 このままでは日本はダメになる』(文化創作出版) 2001年7月 ISBN 4-89387-194-3[1]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%9A%86%E4%B8%80%E9%83%8E
1月1日生まれなんてかなり、めでたい日ですね。
羨ましい日でもあります。
また、細川さん結構な頻度でテレビ等も出演されておりますので、良いかと思います。
政治評論家としても成果をしっかりと上げてありますので、実績は良いかと思います。
あえば直道 政治評論家 共産党顧問 一般社団法人JCU議長
経歴
- 1967年 1月5日 - 神奈川県横浜市で出生。実家は弁護士。
- 1973年 4月 - 慶應義塾幼稚舎(小学校)に入学。以後慶應の付属校を経て慶應義塾大学へ進学。
- 1990年 3月 - 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。
- 2010年 - 単身渡米。
- 2011年 - 全米税制改革協議会(ATR)が主催する「水曜会」に継続的に参加。
- 2012年1月 - 共和党全米委員会・顧問(アジア担当)にアジア人として初めて就任[2]。
- 2016年 - アメリカ大統領選挙について各メディアにてコメントしている。
-
詳細は「#メディア出演・掲載」を参照
- 2017年 - 共和党全米委員会・顧問を退任し[7]、JCU議長の職務をメインに活動する。
共和党との関係
- 2014年11月11日産経新聞の広告記事で、共和党全国委員会共同議長シャロン・ディとの対談が掲載された[12]。
- 2015年には、共和党の支持母体である「全米保守連合」(ACU)の日本側のパートナーとなる一般社団法人JCUを設立。
- また、ドナルド・トランプとは、トランプが2016年アメリカ合衆国大統領共和党予備選挙に出馬する前からの知り合いで、[要出典]メディアで泡沫候補扱いされていた頃から支持している。
- 2016年3月5日、ワシントンD.C.にて開催中の共和党系政治大会 CPAC 2016 メイン・ホールにおいて『新しい日米同盟のあり方』と題して演説を行った[13][14]。
- 2016年6月から、共和党からの大統領選の情報を日本のメディアに出演してアメリカの現状を伝える。
- 2016年12月、トランプの大統領選の当選後は、新政権移行チームの日本窓口の1つとして活動している[15][16][17]。
- 2017年1月、ドナルド・トランプのアメリカ合衆国大統領就任に合わせ、共和党全米委員会・顧問の役を退任したが、新政権との連携活動は継続している。
- 2017年2月25日、CPAC 2017 の3日目メイン・ホールにおいて演説を行った[18]。
- 2018年2月23日にマイク・ペンスアメリカ合衆国副大統領と、24日にはドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領と会談を行ったと自分のブログで主張し[19]、同日3年連続のCPAC 2018 の3日目メイン・ホールにおいて演説を行った[20][21]。
役職に対して
- 2016年11月5日、Web News『BuzzFeed』が、アメリカ共和党顧問の肩書きに詐称があるのではないかと報じた。BuzzFeedの取材によると、共和党全国委員会は「あえば氏は共和党全米委員会(RNC)で何の役職にも就いていません」と回答があったとされ(回答者不明)、一方、共和党の広報戦略を担当しているボブ・スパークスは、「あえば氏は、ディ共同議長の無報酬アドバイザーです」と回答している。あえば本人は「2011年の12月に正式にRNCの法務室の認可が下りた。RNCの法務室か、共同議長秘書に問い合わせれば明確になる」と反論している[22]。
著作
単独著書
- 『最強国家 ― 日本の決断』文芸社、2011年1月発行、ISBN 978-4286097305
- 『トランプ革命』双葉社、2016年3月23日発行、ISBN 978-4575311181
共著
- 『国難に備えよ―日本の安全保障を問う!』矢内筆勝・黒川白雲 共著、2010年5月27日発刊、ISBN 978-4863950429
書籍監修
- 『クリントン・キャッシュ』著:ピーター・シュヴァイツァー、監修:あえば直道、発行:LUFTメディアコミュニケーション、2016年2月10日発行、ISBN 978-4906784417
- 『大統領の風水』著:小林照弘、監修:あえば直道、発行:音羽出版、2017年1月、ISBN 978-4901007634
- 『トランプのアメリカ アメリカ―その「偉大なる復活」の真相』著:ニュート・ギングリッチ、監修:あえば直道、発行:産経新聞出版、2018年11月28日、ISBN 978-4819113526
メディア出演・掲載
- 1994年9月10日公開 - 映画『ノストラダムス戦慄の啓示』1994年、劇場公開映画:東映(生まれ変わりのドーム・息子役)出演
- 2012年4月 アメリカのオピニオン誌”The Atlantic”『月刊誌「アトランティック」5月1日号』インタビュー掲載[24]
- 2012年11月2日発売『夕刊フジ』11月3日号「激戦 11・6米国大統領選挙の舞台裏」[25]掲載
- 2013年6月25日発売『月刊「WiLL」2013年8月号』アメリカ現地レポート「中韓ロビイ活動にこう対抗せよ」[26]掲載
- 2013年12月20日発売『月刊「WiLL」2014年2月号』現地レポート「中国のアフリカ侵略を食い止めろ」[27]掲載
- 2014年3月28日発売『夕刊フジ』3月29日号「オバマケアの代替案もつ“有力候補”ベン・カーソン氏に注目 饗庭直道氏に聞く」掲載
- 2014年11月25日発売『月刊「WiLL」2015年1月号』「反日運動の黒幕『抗日連合会』に極秘潜入!」[28][29]掲載
- 2014年11月11日『産経新聞』米国共和党シャロン・デイ氏との対談「共和党勝利 日米新時代に向けて」[30]掲載
- 2015年4月9日放送開始 - テレビ番組『ググって○○聞いてみた!?~ニュースの裏側調査会』2015年(BS12、TOKYO MX 2局放送)[31]レギュラー出演[32]、9月26日まで
- 2016年3月28日発売『週刊大衆2016年4月11日号』「トランプ大統領誕生で日本はどうなる!?~米国共和党全米委員会アジア顧問が予見」掲載[34][35]。
- 2016年4月11日発売『週刊ポスト2016年4月22日号』「トランプと角栄の共通点に人の心を動かすスピーチ術」[36]掲載。
- 2016年5月29日放送 - フジテレビ系列『新報道2001』出演「ドナルド・トランプ自身が『クリントン・キャッシュ』を取り上げている」[37]
- 2016年7月4日発売『週刊大衆2016年7月18日号』「「トランプが『トランプ革命』を持って勝利宣言!?」掲載[38]
- 2016年7月9日放送 - TOKYO MXテレビほか『淳と隆の週刊リテラシー』[39][40]出演
- 2016年7月21日放送 - フジテレビ系列『ユアタイム〜あなたの時間〜』[41][42]出演
- 2016年10月2日放送 - テレビ朝日系列『坂上・美輪のニュースにダマされるな』出演[43][44][45]
- 2016年10月31日発売『週刊大衆』11月14日号「現地レポート、窮地のトランプ候補 大統領への秘策」掲載[46][47]。
- 2016年11月4日発売 - アメリカの政治専門紙『The Hill(ザ・ヒル)』「トランプ政権は『ならず者国家』と対峙する日本の力強い同盟国となりうる」掲載[48][49]。
- 2016年11月11日放送 - TBSテレビ系列『白熱ライブビビット』「トランプ大統領の素顔について」出演[50][51][52][53][54][55]
- 2016年11月18日発売 - アメリカの政治専門紙『The Hill(ザ・ヒル)』「アジアのパワー・バランスの舵取りを決める、トランプ氏による米日会談」掲載[56][57]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%88%E3%81%B0%E7%9B%B4%E9%81%93
かなりの経歴をお持ちで、コメントも面白くなおかつ分かりやすいですね。
アメリカとの国際関係の架け橋になるのでしょうか。
今後も結果も楽しみですね。
伊藤惇夫 政治評論家
人物[編集]
学習院大学法学部卒業後、出版社へ就職した後、1973年、時の総理・総裁田中角栄に誘われ自由民主党本部事務局に勤務。自民党では広報を担当し、1989年からは自民党政治改革事務局主査補として政治改革大綱を取りまとめる。その後、自民党を退職し、1994年末から新進党総務局、1996年12月から太陽党、1998年1月に民政党、4月から民主党の事務局に勤務。太陽党以後は、いずれも事務局長を務めた。
新党の結成に次々と立ち会ったことから「新党請負人」の異名を持つ。2001年12月に民主党を退職し、政治アナリストとして独立。執筆業の他、ニュース番組やワイドショーなどでコメンテーターとして活動。現在、学習院大学・明治学院大学・日本大学法学部並びに大東文化大学講師を務める。
著書[編集]
- 『政党崩壊』
- 『永田町権力者たちの情報戦争』
- 『永田町「悪魔の辞典」』
- 『政治の数字』
- 『永田町の回転ずしはなぜ二度回らないのか』
- 『民主党 ~野望と野合のメカニズム~』新潮新書290 ISBN 978-4-10-610290-5
- 『国家漂流 -そしてリーダーは消えた-』中央公論社(2012年10月10日発行)
その他
出演番組[編集]
- くにまるワイド ごぜんさま〜(文化放送・木曜出演)
- くにまるジャパン(文化放送・木曜出演)
- くにまるジャパン 極(文化放送・木曜・出演)
- ワイド!スクランブル(テレビ朝日、不定期)
- FNNスーパーニュース(フジテレビ、不定期)
- スーパーモーニング(テレビ朝日、不定期)
- ひるおび!(TBSテレビ、不定期)
- FNN総選挙2012 ニッポンの決意 JAPAN'S DECISION(2012年12月16日、フジテレビ)コメンテーター
- BSフジLIVE プライムニュース (BSフジ、不定期)- 2015年2月9日
- 教えて!ニュースライブ 正義のミカタ(朝日放送、不定期)
- おはようコールABC(朝日放送2010年3月29日-、月曜日)
- たかじんNOマネーBLACK(テレビ大阪、不定期)- 2015年3月14日
- 情報プレゼンター とくダネ!(フジテレビ、不定期)
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%83%87%E5%A4%AB
結構テレビは出演していて、影響力あるかと思いますね。
有馬晴海 政治評論家
経歴[編集]
1958年、鹿児島県川辺郡坊津町出身[1]。立教大学経済学部卒業。 リクルート社に入社。当時優秀社員ベスト10人内の1人に入る成績を収めた[2]唯一の男性社員だった。1985年、リクルートを退職し、国会議員秘書へ転身。1996年に政治評論家として独立。 現在はテレビ、ラジオ出演や、新聞・雑誌での政治評論や講演活動を続ける一方、研究会「隗始塾」[3]を主催している。また、ポスト小泉レースにおいて用いられた麻垣康三という造語を発案した。
出演[編集]
テレビ[編集]
準レギュラー[編集]
ゲスト[編集]
- 爆笑! こうなる宣言(関西テレビ)
- アゲるテレビ(フジテレビ)
- めざましどようび(フジテレビ)
- BSフジLIVE ソーシャルTV ザ・コンパス(BSフジ)
- 激論!コロシアム 〜これでいいのか?ニッポン〜(テレビ愛知)-2013年10月12日
- SUPER SURPRISE(日本テレビ)
- 博士も知らないニッポンのウラ(インターネットテレビ ミランカ)
- 博士の異常な鼎談(TOKYO MX/テレビ神奈川)
- ひるおび!(TBS)
ラジオ[編集]
- 大野勢太郎 HYPER RADIO(NACK5)
- 東京わがままモーニング(ラジオ日本)-2008年9月~2010年4月
- 遠山清彦のピースpeaceピース(ラジオ日本)
- 浅尾慶一郎のさわやかトーク・カフェ(ラジオ日本)-2006年11月5日、12日
著作[編集]
- 『議員秘書の打ち明け話―金に、選挙に、陳情に…元議員秘書が明かす政治の裏』 - コスモ出版(1995年)
- 『政治家の禊―有馬晴海の選挙リポート』 - 近代文芸社(2000年)
- 『永田町Newパワーランキング100』 - 薫風社(2006年)
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E6%B5%B7
有馬晴海さんは、斬新な切り口でかなり面白い方だと思ってます!
また、著者も読みましたがこれも面白い。
政治評論家 池上彰
生い立ち[編集]
1950年、長野県松本市に生まれ[9][10]、東京都練馬区で育つ。池上家のルーツは松本で、祖父の代に東京に移り住んだ[11]。父は東京で就職し、転勤先の松本で母と出会い、彰が生まれた[11]。父親は銀行員。子供の頃の愛読書は『クオレ』だった[12]。また、父親が池上が小学生の時に買って帰り、「読め」と言って手渡したのが『君たちはどう生きるか』であり、2017年同書が新装版となって刊行された際にまえがきを寄稿した。小学生の時に、地方新聞記者の活躍を描いた『続地方記者』(1962年、朝日新聞社)と出会った事と[13]、東京都立大泉高等学校在学中に、広島抗争に於いて暴力団と対決した中国新聞記者がモデルのドラマ『ある勇気の記録』(NETテレビ(現・テレビ朝日))を観たことがきっかけで、記者を志すようになる[14][15]。慶應義塾大学経済学部へ進学後、当時は学園紛争の真っ只中であったが、自身が目の当たりにした紛争と、報道される内容とのギャップに違和感を覚え、正しい報道をすべく実家の購読誌でもあった朝日新聞社をはじめとした新聞社と、日本放送協会(NHK)への就職を希望した。しかし「これからはテレビの時代」という想いと、日本放送協会の記者になれば必ず地方勤務から始まることが決めてとなり[16]、最終的に日本放送協会への入社を決める事となった。
NHK時代[編集]
同期にはアナウンサーの宮本隆治、大塚範一がいる[17]。入局当初から「初任地は小さな町で[18]」「通信部への転勤[19]」を自ら希望し、松江放送局、広島放送局呉通信部などで勤務した。松江放送局では3年間勤務し、記者が少なく一人ひとりの担当が多いという事情もあり島根県警察本部・松江警察署・松江地方裁判所・広島高等裁判所松江支部・松江市役所・日本銀行松江支店を担当し、結果的に検察・警察・裁判所および地方の県政・統治機構を学び、日本という国の仕組みを「ミニ国家」である地方から学ぶことができたとしている[20]。1976年のロッキード事件ではNHKの全国各局から若手記者が招集され、池上も松江放送局から取材の応援に加わった[21]。呉通信部では記者2人と更に少なく、カメラマンとしての役割やラジオ放送の原稿執筆なども行なった[20]。また、呉通信部勤務では取材中に暴力団に囲まれるという『ある勇気の記録』さながらの体験もしたという[14]。
1979年8月より東京放送局報道局社会部に異動し警視庁・気象庁・文部省・宮内庁などを担当する[22][23][24]。東京異動1年目は3つの区役所と9つの警察署だけをひたすら回るという任務をこなし、2年目からは社命により警視庁の殺人・強盗・放火・誘拐の専門記者となり、1980年8月の新宿西口バス放火事件や、1982年2月のホテルニュージャパン火災、日本航空350便墜落事故などを取材した[20]。1983年5月に発生した日本海中部地震でも、実際に事故や事件、震災の現場に自ら赴いた。1985年8月の日航ジャンボ機墜落事故では、池上が都内で書いた第一報を当時の松平定知が7時の定時ニュースで伝えている[21]。この事故をテーマにしたドラマ『クライマーズ・ハイ』(2005年12月 NHK)で、劇中で使用された当時の実際のニュース映像中で取材中の池上を確認できる。
1989年4月から[25]『ニュースセンター845』、1991年からは『イブニングネットワーク』のキャスターをそれぞれ担当する。この時に(これまで自らも記者として書いていた)ニュース原稿とは「こんなにわかりにくくて、つまんないのか!」と衝撃を受けたことが非常に大きな転機となる[26]。原稿を書き換えられるデスクの立場でもあったことから、池上は自分が読むニュース原稿をわかりやすく修正するようになり、また『ニュースセンター845』では、番組の最後に何気なくダジャレを交えることもあった。更に1994年から退職する2005年まで『週刊こどもニュース』で、ニュースに詳しい「お父さん」役として編集長兼キャスターを担当する。ニュースについての解説本『これが「週刊こどもニュース」だ!』(2000年集英社文庫)も注目を集めた。週刊こどもニュースの担当について池上は、番組を通じてニュースってのはこんなにわかりやすくできるんだよということを示せばいろんなところに影響力を及ぼすんじゃないか、大人が見てくれるんじゃないか、という思いがあったという[20]。
2005年3月、定年前でNHKを退職しフリーランスのジャーナリストに転身した。もともと池上はNHKでジャーナリストとしてのキャリアを全うするため解説委員になることを望んでいたが、解説委員長から「解説委員というのはある専門分野をもっていなきゃいけない。お前には専門分野がないだろう」と言われ、解説委員への望みを絶たれたことが退職の契機になった[27]。また記者出身であったことからテレビに出て恥をかくより原稿を書いていた方が楽しく、原稿書きに専念したい、という思いが当初はあったとしている[20]。
フリーランス転身後[編集]
退職後は活動の場を広げ、2005年8月6日放送の日本テレビ『世界一受けたい授業』で民放初出演を果たす。以降、『ちちんぷいぷい』(MBSテレビ)など、報道・情報系の番組に多数登場している。
2008年10月からは、『学べる!!ニュースショー!』(テレビ朝日)に、ニュース解説者としてレギュラー出演し、分かり易く丁寧な語り口が幅広い世代から好評を得て、徐々に人気を集める事となる[28]。同番組が2009年秋に終了した後は、各局で池上を解説者として迎えた同様のコンセプトの番組が次々制作された。尚、『学べる!!ニュースショー!』の復活を望む声が多く寄せられたため[28]、特番として不定期放送されるようになり、2010年春から『そうだったのか!池上彰の学べるニュース』(以下『学べるニュース』と略記)と番組名を変えてレギュラー化した。
2010年7月11日の第22回参議院議員通常選挙の選挙特別番組『池上彰の選挙スペシャル』(テレビ東京系・BSジャパン)で総合司会を担当[29]。2010年12月31日から翌年1月1日未明にかけて放送された『そうだったのか!池上彰の学べるニュース 年またぎ6時間半スペシャル!!』では、「事前収録分と生放送を織り交ぜながらニュース解説だけで年を越す」というコンセプトのもとで、総合司会から生放送パートのニュース解説役まで務め上げている。2011年12月31日には、前回より1時間長い『そうだったのか!池上彰の学べるニュース 年またぎ7時間半スペシャル!!』が放映された。[30]
2010年10月6日に発売された浜田省吾の音楽DVD『僕と彼女と週末に』では、日本の近代史から現代史に於ける各テーマをまとめた100ページ余りの解説文を寄稿[31]、2011年1月4日にはテレビ東京系で映画「サウンド・オブ・ミュージック」ハイビジョン完全復元版を放送した際にナビゲーターを務める[32] など、ジャーナリストの域を超えた活動にも取り組んでいる。
一方では並行して「朝日新聞」に全国紙の紙面を比較・論評するコラム「池上彰の新聞ななめ読み」を連載。他にも、著書の執筆や雑誌・ニュースサイトへの連載等、多忙を極め、次第にジャーナリストとしての活動や体調に支障を来すようになった。そのため2011年1月12日に、「今後は取材・執筆活動に専念したい」と同年3月いっぱいで全てのテレビ・ラジオ番組への出演を休止することを発表する[33][34]。同月19日には、番組降板の理由に「ニュースを分かりやすく解説する番組が増えてきたこと」を挙げたうえで、「(番組で定期的にニュースを解説するという)私の役割は終わった。今後は一(いち)ジャーナリストに戻ります」と公言した[35]。実際には、降板予定直前の2011年3月に東日本大震災が発生したため、同年4月まで『学べるニュース』や震災関連番組へ連日出演し、生放送のスタジオ進行・解説にとどまらず被災地に赴き自ら取材を行っている。
2011年5月1日には、ジャーナリスト代表として「毎日新聞」の第三者機関である「『開かれた新聞』委員会」の委員に就任する[36]。尚、競合誌である「朝日新聞」の「新聞ななめよみ」の連載も続けている。
その後はテレビ東京系を中心に不定期放送の特別番組へ出演。同年9月以降は、大学での公開講義に資料映像を連動させた冠番組が、同局やBSジャパンで相次いで放送されている。2012年10月には、同局の「特別ニューヨーク特派員」に任命されるとともに、2012年アメリカ合衆国大統領選挙をめぐる取材を同国各地で担当[37]。同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では同局系の開票特別番組『池上彰の総選挙ライブ』でメインキャスターを務めた。
2012年2月1日付で、東京工業大学の学内共同研究教育施設・リベラルアーツセンターの専任教授に着任した[38]。これを打診された際に職員に対して、(同校卒の)菅直人のような人間を再び輩出しないことが目的なのかと尋ね、苦笑いされたとしている。
同年4月からは、同大学で社会科学系科目の一部を受け持つかたわら、古巣・NHK(Eテレ)の新番組『メディアのめ』でテレビ番組へのレギュラー出演を本格的に再開[39]。その一方で、特別番組への出演や、信州大学・京都造形芸術大学での教授職も続けている[40]。
2013年には、前年放送の『池上彰の総選挙ライブ』(前述)が高く評価され、第5回伊丹十三賞を受賞。4月18日の授賞式では、別番組でアフリカ・中東地域の国連難民キャンプを取材した経験から、賞金(100万円)の全額を国際連合世界食糧計画WFP協会に寄付することを発表した[41]。また、6月23日の東京都議会議員選挙に於ける東京MXテレビ開票特別番組『首都決戦2013 池上彰の都議選開票速報』と、7月21日第23回参議院議員通常選挙のテレビ東京開票特別番組『池上彰の参院選ライブ』でそれぞれメインキャスターを務めた。
2014年には、第18代東京都知事・猪瀬直樹の辞職に伴う東京都知事選挙の公示直前(1月6日)に、第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と会食。会食後に細川が無所属での立候補を表明したことから、全国紙の一部で「細川から池上に出馬を打診した」「池上が細川に立候補を促した」という旨の記事が掲載された[42]。これに対して、池上は『朝日新聞』同月31日付朝刊の連載コラム「池上彰の新聞ななめ読み」の中で、「中立であるべき立場のジャーナリストが、選挙で特定の人物に立候補を促すことは、決してやってはいけない行為」という見解を基に記事の内容を否定。「細川から立候補を打診されたが、投開票の当日(2月9日)にテレビの特番(テレビ東京系列の開票特別番組『池上彰の都知事選ライブ』)へ出ることを理由に断った」「細川には、一部週刊誌での報道を基に、立候補の意思を確認しただけに過ぎない」として、池上へ直接取材せずに、伝聞調で記事をまとめていることに対しても苦言を呈した[43]。結局、池上は当初の予定通り、2月9日に『池上彰の都知事選ライブ』でメインキャスターを担当。4月からは、愛知学院大学の特任教授へ就任するとともに、テレビ朝日の新しい冠番組『ここがポイント!!池上彰解説塾』(『学べるニュース』シリーズの姉妹番組)にレギュラーで出演している[44]。
その一方で、2014年2月10日には、テレビ朝日の開局55周年を記念した約3時間の冠番組『池上彰が選ぶ 日本を変えたニュース55年史』をテレビ朝日系列で放送。同年4月12日には、テレビ東京の開局50周年特別番組『池上彰のJAPANプロジェクト』でキャスターを務める[45]。
2014年8月、慰安婦問題における朝日新聞の検証記事(8月5・6日)についての感想および論評を示すことを内容とした「朝日新聞は謝罪するべきだ」とする批判記事を同新聞のコラム「新聞ななめ読み」8月29日付に掲載しようと原稿を提出したところ、その前日28日になって「掲載できない」とする連絡が飛び込み、池上はこの連載の中止を申し出た[46]。しかし、朝日新聞の対応につき、社外だけでなく、同社に属する記者からもtwitterを通じた批判があがり、同社は、同日夜に池上に対し「掲載したい」と連絡をつけた。9月4日朝刊に、池上の執筆した記事を全文掲載し、自身のコメントを「おことわり」として加えることで池上は掲載に承諾した。この回以降の執筆については「全くの白紙」としている[47]。その後、朝日新聞は、9月11日、木村伊量社長が行った記者会見(別件であるいわゆる吉田調書問題について謝罪するもの)のなかで、本件を言論封殺と批判されたことが「思いもよらぬ批判」だったとした上で、判断は杉浦信之取締役編集担当によるものだったとした[48][49]。また池上本人は、この一連の出来事について「言論封殺」と批判的に報道したメディアの中にも同様の事例は多数あるとして、「その新聞社の記者たちは『石を投げる』ことはできないと思うのですが」と書いている[50]。
第2次世界大戦の終戦から70年目に当たる2015年には、「朝日新聞」が1月30日付朝刊から「新聞ななめ読み」の掲載を再開[51]。池上自身は、4月1日付で名城大学の特別講師へ就任する一方で、大戦に関する解説・ドキュメンタリー番組へ相次いで出演している。8月1日に日本テレビ系列で放送された『戦後70年特別番組 いしぶみ〜忘れない。あなたたちのことを〜』(広島テレビ制作)では、NHKの記者時代に原爆問題を取材していた縁でナビゲーターを務めた[52]。
2016年3月31日付で東京工業大学を定年退職し、同年4月から東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特命教授及び名城大学教授に就任。[7]
同年10月13日、池上と『池上彰の選挙ライブ』のチームが第64回菊池寛賞を受賞[53]。
9月9日に徳島文理大学教授の八幡和郎がFacebookに本件について語る中で池上の冠番組の取材を受けた際「番組の方針で、番組では八幡の意見ではなく池上の意見として紹介したい」と言われた、と話した。八幡の発言を受け有本香、高橋洋一らも同様の事があったとしたが、池上は全面的に否定している[54]。
人物[編集]
読書や新聞スクラップ、地図収集、ダジャレが趣味で、海外に行くと必ずその国の地図を購入する[55]。酒は飲まない[56]。テレビ出演が多いが、「本が“本”業」と述べており、「本“も”書いている」よりも「テレビ“にも”出ている」と言われる方が嬉しいという[57]。ダジャレに関しては評判が悪く、番組スタッフに「やめてください」と言われてもめげずに言い続けるという。 TRF、ZARDのファンである。
インターネットについては、情報収集の目的で積極的に活用する一方で、比較的自身の露出には消極的な姿勢を取っている。個人としては、公式ブログやTwitter・Facebookの公式アカウントなどを一切持っていない[58]。その一方で、『週刊こどもニュース』のディレクターだった杉江義浩が運営(現在は松本千恵が運営)する「池上彰ファンクラブ」および同クラブの公式サイトを公認。インターネット向けにコラムを掲載したり、ニコニコ生放送の番組に出演するなど、表現の場として裾野を広げている。
ドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルクの言葉「両側から燃え尽きるロウソクでありたい」を座右の銘としている。「全力でいろいろなことに当たりたい」という意味である[59]。
NHK記者時代から、一貫して「難しく思われがちな社会の出来事を、なるべく分かりやすく噛み砕く」というスタンスを持っている。ほかにも「国際問題は地図を見れば分かる」という持論を繰り返し唱えている。『そうだったのか!池上彰の学べるニュース』において、右翼・左翼といったデリケートな用語の解説を行ったり、2010年の参議院選挙の特別番組『池上彰の選挙スペシャル』において、日本遺族会や創価学会、日本教職員組合、全特といった政党の支持母体を取り上げたりしたこともある。
大平正芳を、特徴的な口調の「アー、ウー」を除いて記録すると、理路整然とした文章となることを理由に、歴代で最も聡明な総理大臣として挙げている。また細川護熙首相であった当時、自らと同じく、新聞スクラップが趣味であることに親近感を抱いていた[60]。
朝日新聞阪神支局襲撃事件については、「政治や社会のあり方を批判するのは、日本を良くしたいから。それを「反日」って何? 怖い時代に入りつつあるのかな、と思ったよね」と、インタビューに答えている[61]。2008年5月3日の「第21回言論の自由を考える5・3集会」(朝日新聞労働組合主催)では司会を務めた[62]。
「売国」という言葉については、「日中戦争から太平洋戦争にかけて、政府の方針に批判的な人物に対して使われた言葉。問答無用の言論封殺の一環です」とし、少なくとも言論報道機関は使うべき言葉ではないとしている[50]。また、言論報道機関は両論併記するべきであるが、朝日新聞は論調に反する意見も載せているのに対し、読売新聞、産経新聞の2紙について、それができていない、と批判している[63]。
集団的自衛権に関する安全保障関連法案について、自身が賛成か反対かを明らかにしていなかった。その理由として、自身の影響力から自身の意見によって世論がなびいてしまうことがあれば健全ではないからだとしている。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E5%BD%B0
池上彰さんの説明はわかりやすく、子供にもわかりやすいものになっていて面白いかと思います。
個人的には、解説が面白いです。
柿崎明二 政治評論家
来歴[編集]
秋田県出身。早稲田大学第一文学部を卒業後、毎日新聞社を経て、共同通信社に入社。
著書[編集]
- 空白の宰相 「チーム安倍」が追った理想と現実(共著、2007年、講談社) ISBN 978-4062144261
- 「次の首相」はこうして決まる (2008年、講談社現代新書)ISBN 978-4062879644
- 検証 安倍イズム――胎動する新国家主義 (2015年、岩波新書) ISBN 978-4004315667
出演番組[編集]
テレビ[編集]
- 情報プレゼンター とくダネ!(フジテレビ)
- 直撃LIVE グッディ!(フジテレビ)
- ひるおび!(TBS)
- ゴゴスマ〜GO GO!Smile!〜(CBC)
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E5%B4%8E%E6%98%8E%E4%BA%8C
テレビに結構でてますね。
しっかりと物事をはっきり言うので良いかと思います。