俵孝太郎 政治評論家

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歯に衣着せぬ発言で鋭く切り込む政治評論家は昔は多かったですが、現在は段々少なくなり、大衆に寄り添う人が多くなっている状況です。そんな中、どの現場でも本音をズバッと言える政治評論家がいます。その名は俵孝太郎さんです。1930年11月12日、今年で89歳を迎える俵孝太郎さんは東京都の出身です。東京大学文学部を卒業した俵さんは、産経新聞に入社。大阪で記者としてのキャリアをスタートさせると、1959年に東京に戻り、政治部記者として与野党、省庁の担当記者として活躍。35歳の若さで論説委員となりますが、1969年産経新聞を退社してしまいます。そのきっかけは産経新聞内の人事への反発で、退職後は文化放送のキャスターになります。


俵孝太郎さんは、文化放送のニュース番組を9年担当するかたわら、1975年にはフジテレビのニュース番組のキャスターに就任、1987年まで、時間帯の変更はありながらもお茶の間にニュースを届け続けます。その間も産経新聞などにコラムを掲載するなど政治評論家として活躍を続ける俵さん、そんな中で衝撃だったのはクイズ番組であるマジカル頭脳パワーへの出演です。明らかにカラーが合っていないと誰もが思いながらも意外な才能を発揮し、マジカル頭脳パワーの全盛期を支える他、俵孝太郎さんの知名度は一気に高まっていきます。


俵孝太郎さんが親しくする政治家に小泉純一郎さんがいます。俵孝太郎さんの祖父は浜口雄幸内閣で商工大臣を務めた俵孫一氏で、その孫一氏と小泉純一郎さんの祖父が大の仲良しだったのだとか。その縁もあって、小泉純一郎さんに子供が生まれた時、俵孝太郎さんの名前を採用し、自らの息子につけます。それが小泉孝太郎さんです。俵孝太郎さんと小泉純一郎さん、現在は熱心な交流をしているわけではありませんが、自分の息子の名前に使うという間柄は、親しくなければできるものではありません。


保守派、タカ派の1人として記事の執筆や講演などをこなしてきた俵さん。現在ネットを中心に盛り上がりを見せる朝日新聞批判などを、ネットが登場する前から行っています。そんな俵さんも80歳を過ぎてから実質的に隠居の状態になっていますが、石川県金沢市の新聞社「北國新聞社」においてコラムの掲載やインタビューを受けており、ここ最近の姿を見せています。現在も舌鋒鋭い批評を行っているそうで、テレビを見ていて腹立たしいニュースを見つけると、ついつい荒々しい言葉を使ってしまうんだとか。90歳に迫る年齢でありながら、今もお体は元気なようです。

伊藤惇夫 政治評論家

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政治評論家の世界でも、与党の政治家に近い人が多くいますが、野党に近い政治評論家はさほど多くありません。その中の1人である伊藤惇夫さんは、政党職員として長らく働き、政治評論家に転身した1人です。1948年8月28日、71歳の伊藤惇夫さんは、神奈川県葉山町の出身です。学習院大学を卒業した伊藤さんは、一度出版社に就職し、政治とは離れた場所で働いていました。1973年、まだ20代の伊藤さんは当時総理大臣だった田中角栄さんに依頼され、自民党の事務局で働くことに。当時の自民党は派閥抗争が一番激しい時期で、自民党最大の危機と言われた四十日抗争も自民党の党職員の立場から見ていました。激動の自民党の時代を見続けた伊藤さんは、政治改革を支える立場となりますが、自民党を退職。1994年から新たに誕生した新進党の総務局で働きます。


新進党自民党から飛び出て政権奪取に成功した人たちで構成されますが、仲間割れもあって長くは持たず、新進党自体も解党状態に。1996年から様々な野党の事務局で働き、1998年には民主党で働きだします。新党が立ち上がれば事務方のトップとして招聘される時期が続いた伊藤さん、政治評論家を名乗るようになったのは21世紀にはいってからです。伊藤さんは自らを政治アナリストと名乗り、様々なテレビ番組でコメンテーターとして活躍します。


伊藤さんが現在のテレビにおいて貴重な存在なのは、野党の立場から政治を読み解くことができる点にあります。最初のキャリアは自民党で始まり、その後、野党の事務方で働き続けますが、野党の立場も与党の立場もわかっている政治評論家はなかなかいません。特定の政治家と仲がいいだけで、現場の人間は何を考えているかという部分を言えないため、誰でも同じような状況に。その点、伊藤さんはどちらの立場も痛いほどわかるため、独自の取材もしやすく、政治家も心を開きやすいというわけです。現在の政権与党と距離が近い政治評論家が多くなっている現在、伊藤さんのような存在は貴重。だからこそ、東京や大阪などのワイドショーなどに頻繁に呼ばれています。現在71歳と年齢を重ねていますが、日本の政治の問題について鋭く切り込んでおり、それでいて話が分かりやすいため、視聴者からの支持も集めている状況。大変な状況ではありますが、それでもくじけることなく、幅広い意見を提示してくれる伊藤さんの姿に今後も注目です。

田原総一朗 政治評論家

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年齢を重ねても舌鋒鋭く政治に切り込んでいく、この姿勢を政治評論家は持ち続けるべきです。現在でもそれが出来ているのが田原総一朗さんです。1934年4月15日、85歳の田原総一朗さんは滋賀県彦根市の出身です。第二次世界大戦では、好戦的で、国のために死ねると言えるような少年でしたが、敗戦を迎え、大人たちが発言を180度変えてしまったことで、世の中に対する不信感が芽生えます。


田原さんは、当初作家を目指し、現在のJTBにあたる日本交通公社で働き、早稲田大学の夜間部に通う二足のわらじで頑張りますが、才能の限界を突き付けられ、ジャーナリストを志すことに。早稲田大学に入り直し、卒業するとマスコミを何社も志望するもダメ。岩波映画製作所でカメラマンのアシスタントを務めます。その後、1964年、30歳の時に現在のテレビ東京が開局し入社。ディレクターとして当時ですら過激な映像を撮り続け、様々な問題を巻き起こしますが、まだこの時は政治に目覚めていたわけではありません。ただ、社会問題を取り上げていく中で政治家がたびたび登場したことから、政治への関心を持つようになります。


フリーになった田原さんは、田中角栄さんとのインタビューを始め、政治とのかかわりを深めます。田原さんにとって最大の出世作は1987年からスタートした朝まで生テレビ、1989年から20年以上放送されたサンデープロジェクトです。与野党の政治家、映画監督などの文化人、タレントなど様々な立場の人間と対峙し、時に壮絶な空気になりながらも本音を引き出す姿勢にテレビの前の視聴者は魅了されます。


田原さんが政治評論家として評価されているのは過激な姿勢や誰に対しても持論を曲げない部分ではなく、政治家との距離を誰に対しても一定に置いている点です。政治評論家に対し、首相官邸がいくらかのお金を渡す傾向があり、政治評論家も何も言わずにそれを受け取るような時代がありました。官房機密費と呼ばれ、領収書がいらないブラックボックスのような仕組みでしたが、田原さんはそのお金を返していました。元官房長官だった野中広務さんがこの事実を明らかにしており、田原さんの政治に対する姿勢が浮き彫りになりました。


現在も過激な主張を続けており、85歳の今でも元気そのもの。日本でタブー視されていたものを取り上げ、激論を交わすなど今ならなかなかできないことをしていました。令和の時代でも日本の政治をズバズバと斬ってもらいたい、そんな声が根強くあります。

あえば直道 政治評論家

 

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政治評論家を名乗る人の中には自民党に近い人、立憲民主党に近い人と特定の党派との距離が接近している人がいますが、あえば直道さんはなんと共和党との距離が近いことをアピールする政治評論家です。自身も出馬経験があるなど、異色の政治評論家です。
1967年1月5日、52歳のあえば直道さんは神奈川県横浜市の出身です。実家は弁護士をしており、エリート教育が行われ、1973年には慶應義塾幼稚舎に入学し、それ以降慶應義塾大学の入学までエスカレーター式で神学を続けます。高校時代には弓道でインターハイに出場するなど、文武両道を行っています。

あえば直道さんの名前が登場したのは2009年5月のこと。この当時、時の総理である麻生総理が様々な理由を付けて衆議院解散を先延ばしにし、任期満了を迎える2009年8月あたりに選挙が行われると言われていました。その際、あえば直道さんの名前が登場し、会見では日本のオバマになりたいと語るも2週間後、投手を交代させられ広報本部長となり、翌年の参院選比例区から出馬するも落選。その後、北米の担当としてアメリカにわたります。


しかし、2012年、とんでもないニュースがアメリカから飛び込んできます。あえば直道さんが共和党の顧問に就任したというのです。その前年、東日本大震災で米軍が危険を顧みず被災地活動を協力してくれたことに感謝するスピーチを行い、それがきっかけで共和党の養殖に就く人物との交流がスタート。その後情報交換が行われ、共和党の顧問になったという流れです。


現在の大統領トランプ氏は全く注目していない頃から指示をしており、大統領になると日本側の窓口として活動しています。2018年にはトランプ大統領、ペンス副大統領と会談を行い、メインホールで演説を行うなど、トランプ政権に近い存在となっており、日本では政治評論家としてそうした話題を提供している状況です。その真偽が色々と取りざたされ、将来的な国政挑戦も視野に入れているとの話もありますが、日本人でこれだけ共和党関係者との距離が近い人はなかなかいません。

 

 

橋下徹 政治評論家

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政治を語る人物の中には当然政治経験がある人も多いですが、知事や市長、国政政党の代表を務め、政治に対して鋭く切り込んでいける橋下徹さんはこれまでの日本にいなかったタイプの政治評論家です。


1969年6月29日、50歳の橋下徹さんは東京都渋谷区で生まれます。父親をすぐに亡くし、小学生の頃に大阪府に引っ越し、その後苦労を重ねて、名門校である北野高等学校に進学すると、ラグビー部に入り、全国高校ラグビーに出場し、高校の日本代表候補にまでなります。その後、早稲田大学政経学部に入学しますが、学生ビジネスでトラブルに巻き込まれたことをきっかけに法律家を目指し、大学卒業の同じ年、司法試験に合格。何度も落ち続ける人がいる中、橋下さんはわずか25歳で合格を果たします。
その後、弁護士となり、1998年には事務所を設立、示談交渉での解決を目指すことに力を入れ、営業活動に力を入れ、主に民事を中心に活動します。この大阪時代から大阪の番組に出るようになり、2003年には現在も続く、行列のできる法律相談所にレギュラー出演、事務所は爆笑問題が所属するタイタンということでサンデージャポンや笑っていいともなどにも出演し、弁護士以上にタレントとしての活動が強まる一方、時事問題に舌鋒鋭く発言し、お茶の間の注目を集めます。


2008年、大阪府知事選が行われ、初当選を果たします。2万%ないなど出馬を否定する発言をしながら最終的に出馬し、圧倒的な大差で当選すると、大阪府の借金体質、税金を無駄に使ってもなんとも思わない姿勢が明るみになり、1期目は職員とバトルし続ける様子が盛んにテレビで報道されます。ところが、当時議会ではオール野党状態だったため、2010年に自民党を集団離党してきた松井一郎氏とタッグを組んで大阪維新の会を結党、その余勢で国政政党を立ち上げ、一時期はこのまま政権交代まで狙えると注目を集めますが、大阪府の改革に専念。2015年、悲願だった大阪都構想住民投票で惜しくも否決されたことで、その責任を取って大阪市長の人気を満了した時点で政界から引退します。


その後、政治評論家として政治を語る他、大阪維新の会の側方支援を行うなどし、Twitterでは鋭い言葉で当事者に疑問を投げかけるなど橋下節は健在。国政選挙のたびに橋下さんの動向が注目される他、現在の安倍内閣との関係が非常に近く、食事に行くことも見られ、大阪万博G20の誘致成功、カジノの設置などにも影響を与えていると言われています。橋下さんの発言から目が離せません。

 

池上彰 政治評論家

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現在政治評論家、ジャーナリストとして人気ナンバー1と言える存在が池上彰さんです。ジャーナリストとしてテレビに引っ張りだこである他、数多くの大学で教授として活躍し、多くの若者に分かりやすく授業を行っています。

 

1950年8月9日、2019年で69歳を迎える池上彰さんは、長野県松本市で生まれます。すぐに東京に移り住み、練馬区で育ちますが、そのルーツは松本です。銀行員を務める父親は小学生が読まないような難しい本を買い与える人物でした。その後、記者になることを志した他、大学時代、大学での紛争が当たり前になっていたものの、報道と実際の状況が違うことに疑問を持ち、地方勤務から始められるNHKへの入社を決めます。


池上さんは様々な注文を1年目から行い、あえて小さな放送局に行けるように求めます。松江放送局では記者が少なかったことで池上さんがフル回転しなければならず、警察、役所、裁判所など様々なところで取材が行え、日本の仕組みを学べました。人数が少ないながらも精力的に活動した池上さんは、1979年東京に戻り、区役所と警察署だけを回るという任務をこなし、それ以降は様々な事件の記者として活動します。


1989年からはニュース番組のキャスターを務めますが、この経験が考えを改めさせます。それまで記者として原稿を書いてきたものの、いざニュース原稿となると非常に分かりにくく、分かりやすくニュース原稿を修正するようになります。池上さんを有名にさせた週刊こどもニュースでは、それをより具現化し、大人でも分かりやすいニュースを心がけるなど現在につながる活動をしていきますが、2005年定年前だったにもかかわらず、NHKを退職しフリーとなります。


フリーランスになってからしばらくは、こどもニュースのお父さんだった人としてコメンテーターに呼ばれるなどしましたが、2008年に放送されたテレビのレギュラー番組でニュース解説者として出演し、大変好評だったため、自らの冠番組に切り替わると、選挙特番における池上さんのタブーへの切り込みなどが絶賛されます。報道があまり得意ではないテレビ東京において、池上さんが出演する選挙特番だけは他の民放を凌駕する状況です。


あまりにも忙しくなったことで全番組の降板を宣言した2011年に東日本大震災が発生したことで、なし崩し的に出演を継続。再びレギュラー番組の本数を増やし、現在に至ります。分かりやすさと中立な立場で攻め込んでいく池上さんのスタイルは唯一無二です。

嘉治隆一 政治評論家

 

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政治評論家というポジションは今でこそ多くの人に与えられていますが、昔はそこまで多くはありません。その中で古くから政治評論家として活動していたのが嘉治隆一さんです。戦争が終わってすぐ論説主幹を担当するなど、その活躍ぶりは日本最初の政治評論家といっても過言ではありません。


1896年8月3日、嘉治隆一さんは兵庫県の神戸で生まれます。学生時代には社会主義や労働運動に関心を持ち、盛んにその論陣を張るようになります。大正9年東京帝国大学、現在の東京大学法学部を卒業すると最初に南満州鉄道で勤務しますが昭和8年に退職、昭和9年東京朝日新聞社に入ります。昭和11年中江兆民陸奥宗光などの研究を行って著書を出すなど、当時の文化人との交友が広かったのも特徴です。
戦争が終わった1945年、その9月には今でも続いている天声人語が登場します。この天声人語を担当したのが嘉治さんでした。1945年9月から1946年4月まで天声人語の執筆を担当し、現在のような形で時事的な話題を扱っていました。


嘉治さんが出版局長の時代には事前検閲と事後検閲の大変さを社内文書に残しています。当時GHQが新聞や雑誌などの検閲を行っており、事前検閲は記事を出す前に検閲を行い、事後検閲は記事が出た後で検閲を行うため、事後検閲の方が鮮度のいいものはすぐに出せるけど、何かあったら恐ろしいことになるというものでした。この中で嘉治さんは、自己検閲という言葉を用いています。これを書いたら検閲で引っかかるという基準は自分で持て、それを忘れたら相当な被害になるという趣旨のものでした。GHQは反米的な意見などを恐れ、それに関する検閲を行っていました。引っかかれば軍事裁判にかけられる、そんな恐ろしい時代だった中、社会主義の運動に強い関心があった嘉治さんは持論を抑えてでも、検閲に引っかからない方を優先、結果的に当時の朝日新聞が一番処分されない新聞となります。


精力的に活動を続け、公演活動などを数多くこなしてきた嘉治さんでしたが、1978年5月19日、81歳でこの世を去ります。政治評論家として明治時代から大正時代、戦争、戦後の日本を見続け、その中で批評を続け、日本を憂い続けた嘉治さん。中江兆民緒方竹虎など、政治の在り方を変えてくれた人たちの言葉などを晩年はまとめる活動をする一方、これ以上戦争の悲劇を繰り返してはならないという思いからか、返還前の沖縄について著書にするなど、後世に語り継がれる作品が多く存在しています。