麻生良方 政治評論家

 

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来歴・人物[編集]

戦前の無産政党の指導者麻生久の長男として生まれた。少年時代は詩人に憧れ、1943年昭和18年)に詩集『青薔薇』を自費出版して近所の書店に置いてもらったという経験がある。

旧制開成中学(現開成高等学校)を卒業し、1945年(昭和20年)早稲田大学文学部を中退後、日本社会党本部に入り、1950年(昭和25年)に浅沼稲次郎の秘書となる。1959年第5回参院選では東京都選挙区から社会党公認で立候補するが落選。1960年昭和35年)に民主社会党の結成に参加。同年の第29回衆議院議員総選挙では、西村栄一によって浅沼の東京1区刺客として送り込まれたが、たまたま浅沼が殺された(浅沼稲次郎暗殺事件)ことも相まって、社会党は浅沼の妻享子を身代わり立候補させ同情票が集まり、麻生は「裏切り者」と批判され落選した。しかし1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙に初当選し、以後3回連続当選を果たす。党副書記長などを歴任。

1965年(昭和40年)、国会内の芸術議員連盟を基盤として、通商産業省認可団体社団法人国際芸術見本市協会を設立、初代理事長に就任、翌1966年(昭和41年)3月には協会最初の事業として第1回ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)をニューヨークにおいて開催した。

1972年(昭和47年)の落選を機に離党し、政治評論家に転進、マスメディアで活動する。1976年(昭和51年)には無所属で東京1区から出馬して見事にトップ当選を果たし宇都宮徳馬鳩山邦夫ら都内の他の選挙区選出の代議士と「無党派クラブ」、1979年(昭和54年)の東京都知事選では代議士辞職をして無所属で立候補し鈴木俊一太田薫と争うも落選。同年秋の第35回衆議院議員総選挙にも落選して返り咲きを果たせず、政治家廃業宣言を行って麻生情報文化研究所を設立、所長となる。

1995年(平成7年)2月21日死去。享年71。

逸話[編集]

三島由紀夫の親友の一人で、三島の小説『贋ドン・ファン記』のモデルとなった[1]1967年には三島から「やらないのは政治だけだが、どうしてもこれをやってみたい」と相談を受けたことがある[2]

1968年創刊の文芸雑誌ポリタイア」の同人であり、世耕政隆とは党派の別を超えてともにスポンサーとなっていた。

主要著書[編集]

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E8%89%AF%E6%96%B9

 

もうすでに亡くなっている方ですが、かなり良いコメントを残しておりますので斬新な考えでコメントがあります。

今後の政治評論家が気になりますね。

本当にどうなるのでしょうか?

今後の日本は。。。