嘉治隆一 政治評論家

 

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政治評論家というポジションは今でこそ多くの人に与えられていますが、昔はそこまで多くはありません。その中で古くから政治評論家として活動していたのが嘉治隆一さんです。戦争が終わってすぐ論説主幹を担当するなど、その活躍ぶりは日本最初の政治評論家といっても過言ではありません。


1896年8月3日、嘉治隆一さんは兵庫県の神戸で生まれます。学生時代には社会主義や労働運動に関心を持ち、盛んにその論陣を張るようになります。大正9年東京帝国大学、現在の東京大学法学部を卒業すると最初に南満州鉄道で勤務しますが昭和8年に退職、昭和9年東京朝日新聞社に入ります。昭和11年中江兆民陸奥宗光などの研究を行って著書を出すなど、当時の文化人との交友が広かったのも特徴です。
戦争が終わった1945年、その9月には今でも続いている天声人語が登場します。この天声人語を担当したのが嘉治さんでした。1945年9月から1946年4月まで天声人語の執筆を担当し、現在のような形で時事的な話題を扱っていました。


嘉治さんが出版局長の時代には事前検閲と事後検閲の大変さを社内文書に残しています。当時GHQが新聞や雑誌などの検閲を行っており、事前検閲は記事を出す前に検閲を行い、事後検閲は記事が出た後で検閲を行うため、事後検閲の方が鮮度のいいものはすぐに出せるけど、何かあったら恐ろしいことになるというものでした。この中で嘉治さんは、自己検閲という言葉を用いています。これを書いたら検閲で引っかかるという基準は自分で持て、それを忘れたら相当な被害になるという趣旨のものでした。GHQは反米的な意見などを恐れ、それに関する検閲を行っていました。引っかかれば軍事裁判にかけられる、そんな恐ろしい時代だった中、社会主義の運動に強い関心があった嘉治さんは持論を抑えてでも、検閲に引っかからない方を優先、結果的に当時の朝日新聞が一番処分されない新聞となります。


精力的に活動を続け、公演活動などを数多くこなしてきた嘉治さんでしたが、1978年5月19日、81歳でこの世を去ります。政治評論家として明治時代から大正時代、戦争、戦後の日本を見続け、その中で批評を続け、日本を憂い続けた嘉治さん。中江兆民緒方竹虎など、政治の在り方を変えてくれた人たちの言葉などを晩年はまとめる活動をする一方、これ以上戦争の悲劇を繰り返してはならないという思いからか、返還前の沖縄について著書にするなど、後世に語り継がれる作品が多く存在しています。