早坂茂三 政治評論家

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令和の時代でも偉大な政治家として語られることが多い田中角栄氏。その田中角栄氏の最も有名な著書といえば日本列島改造論です。この日本列島改造論の名付け親が早坂茂三さんです。1930年6月25日生まれ、早坂茂三さんは北海道函館市で生まれます。実家は呉服店早坂茂三さんは、地元の高校を出た後、早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学します。この当時、学生運動が激しく、その影響で日本共産党に入党することに。新聞学科ということもあり、新聞記者になろうとしますが、結果的にこの経歴がアダとなり、大手新聞社には入社できず、今は無き東京タイムズに就職。政治部記者として番記者などを務めますが、その時に出会ったのが田中角栄氏です。


早坂茂三さんが32歳の時、当時大蔵大臣だった田中角栄氏に呼ばれると、天下を取ろうじゃないかという誘い文句に乗っかり、田中氏の秘書となります。総理大臣になる前の田中氏の秘書になった早坂さん、とても忙しい日々を過ごし、田中氏の政治哲学を吸収していきます。しかし、いつも蜜月だったわけではなく、1974年には、ジャーナリストになるべきだと秘書の世界から足を洗うよう、田中氏から促されます。それでも秘書として忠誠を誓う早坂さんは支え続けさせてほしいと懇願、その後、田中氏の逮捕などで世間からバッシングを受けたことで、マスコミに対する敵愾心を持つようになります。


政治評論家に転身するきっかけは悲劇的でした。きっかけは田中氏の病で、重い脳梗塞になった田中氏の治療方針を巡り、娘の田中真紀子氏と対立。これをきっかけに早坂氏は追放され、政治評論家への転身を余儀なくされました。転身後、事情を知る多くの政治家から激励され、田中角栄のこれまでの歩みを語る役回りを務めるようになります。これまでの半生を振り返りつつ、人生論を若者向けに発信するなど精力的な活動を行っていた早坂さん。政治評論家として、政治家や財界人とのトーク番組を持つなど、実績を着実に積み重ねていきます。1999年には、フジテレビの番組「日本のよふけ」に出演し、今の政治に対する批評を重ね、存在感を発揮。2004年、早坂茂三さんは肺がんで74歳の生涯を閉じますが、最後の仕事は当時話題を集めた綿矢りささんと金原ひとみさんの芥川賞の作品についての論評で、鋭い批評を行っています。思ったことをストレートに述べた早坂さん、今の時代にこそ活躍してほしい政治評論家でした。