伊藤昌哉 政治評論家

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政治評論家の中には特定の政治家に仕え、外からコントロールを図ってきた人もいます。その中の1人に昭和に活躍した伊藤昌哉さんがいます。1917年11月21日生まれの伊藤昌哉さん、当時の満州で生まれ、満州事変あたりで日本に戻り、1942年には東京帝国大学法学部、現在の東京大学法学部を卒業します。戦争末期には陸軍の経理部に属していましたが、途中で家族がいる満州に戻ろうとしたところ、収容されてしまい、収容された日本人向けの商売を行うなどして生きて、福岡市へ送還されます。ここで伊藤さんは西日本新聞社に入り、東京支社に。

当時の商工省の担当だった池田さんに運命の出会いがあります。それが当時選挙に出馬し、後に総理大臣となる池田勇人氏です。記者に情報を出さないことで有名だった池田氏、当初は伊藤さんも例外ではありませんでしたが、時間が経つと池田氏も考えを改め、数年後には伊藤さんに様々な情報を流すようになります。政治部デスクとして活躍した伊藤さんでしたが、当時は自民党がなく、池田氏が所属していた政党が下野をしたことをきっかけに伊藤さんも出番がなくなり、結果的に西日本新聞を退社するハメに。

その後、伊藤さんは池田氏の私設秘書のようなポジションで活動をし始め、1958年、池田氏が大臣になるのをきっかけに自らは大臣秘書官に。1960年ついに池田氏が総理大臣となり、首席秘書官として原稿作りなどに携わります。のちに語り継がれる演説なども伊藤さんが作っており、その結果、池田氏の全幅の信頼を勝ち取り、退陣後も他の政治家からの誘いも断り、取締役などを歴任して政治の世界から離れることに。

それでも大平正芳氏からの依頼でアドバイザーとなった他、福田赳夫氏が総理大臣になる際にも裏で活動をするなど、政治評論家としても活躍しながら裏でコントロールしていた伊藤さん。それでも政治の世界は裏切りがつきもので、様々な裏切りも経験しますが、大平氏が亡くなる前日も呼び出しに応えるなど、かなり暗躍した伊藤さん。大平氏が亡くなってからは、自民党の激動の流れを本にまとめ、ベストセラーをマーク。政治評論家としてテレビ出演を果たすなど、活躍します。しかし、2002年、心不全で85歳の生涯に幕を下ろします。政局の判断と人間の情を重んじる姿勢が多くの政治家から評価された伊藤さん、現代にはなかなかいない傑出した存在だったことが言えそうです。