岩淵辰雄 政治評論家

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政治評論家というポジションは戦後にできたものではなく、昔からあったポジションです。戦前、戦後で活躍した岩淵辰雄さんもその1人です。

1892年1月10日、宮城県で生まれた岩淵辰雄さんは、早稲田大学を中退すると、1928年から読売新聞など複数の新聞で政治記者を務めた後、政治評論家として雑誌での執筆活動に励みます。岩淵さんは、2・26事件以降幅を利かせるようになった統制派とは一線を画す立場にあり、憲兵隊から批判記事を書くのを禁じられるようになります。それでも、岩淵さんは、このままでは日本は戦争で消耗戦を強いられることになりそうであり、責任を政治が負わされると近衛文麿氏に説得するも失敗、結果的に日本は戦争に突入していきます。


1945年、戦争末期の時代、岩淵さんは吉田茂氏らとともに、いかに早く戦争を終わらせるかという動きを強めていきますが、憲兵隊に捕まります。戦争が終わると今度は新憲法の制定に動き、現在の象徴天皇制国民主権を実現させることを構想します。この構想はGHQでも知られるようになり、結果的に今の日本国憲法に少なからぬ影響を与えました。その活躍が評価されたのか、まだ貴族院だった時代に勅選議員に選ばれると、それを境に読売新聞に復帰。主筆として、政治評論の舞台に舞い戻ります。


これ以上戦争のような悲劇を起こしてはならないと、いわゆるハト派として尽力した岩淵さんは、鳩山一郎氏のブレーンとして活動を開始。1954年に首相になった際は自民党の誕生やソビエトとの国交回復といったことに力を入れた他、原子力基本法にも関与。鳩山内閣を支えた岩淵さんは、その後も後の総理大臣となる中曽根康弘氏の抜擢を求めるなど、様々な場面で岩淵さんの存在がクローズアップされます。


戦後間もない時代、毎年のように著書を出し、戦争までの道のりや軍閥政治の評論といったことを進めていった岩淵さん。1962年に国鉄の理事を務めるなど、年齢を重ねるに従って第一線から退き、1975年83歳でこの世を去ります。現在の政治評論家、昭和中期に活躍した政治評論家などは戦争の最中に憲兵隊に捕まるような経験をしておらず、本気で戦争は良くない、言論を守らなければならないという考えには至らない人が目立ちます。むしろ政治評論家の方が好戦的なケースも近年は見られますが、平和を考え、日本の発展のために尽力してきた岩淵さんにとって、令和の政治、政治評論家の働きぶりはどのように映るのか気になるところです。