浜田 幸一 政治評論家
来歴・人物[編集]
少年期[編集]
千葉県君津郡青堀町(現・富津市)出身。実家は大地主で、父・甚三郎は町助役を務めるほどの名士だったにもかかわらず、大政翼賛会の役員でもあったこともあって戦後、戦犯者に指定され公職追放された[2]。その後博打にのめり込み破産した。母が引くリヤカーの後押しをしながら、幸一少年は「負けてたまるか、負けて。父が失ったものを、自分一代で取り返してみせる」と強く決心したという[3]。
1941年(昭和16年)に月謝免除の特待生として旧制千葉県立木更津中学校(現:千葉県立木更津高等学校)に入学。ちょうど太平洋戦争が勃発した時期であったことから、2年に上がった頃から学徒動員で板金工として第2海軍航空廠に奉職し、飛行機の翼を作るなどしていた[4]。
中学3年のときに土浦海軍航空隊に赴き、海軍飛行予科練習生の試験を受けるも、年齢的にまだ早いとのことで不合格となった。このことについて、「もし合格していたら戦後まで生きてはいなかっただろう」と回想している[5]。
1945年(昭和20年)には朝鮮出身の同級生とともに学校推薦で9月1日付で南満州鉄道に入ることが決まったものの、出発直前に終戦となって立ち消え、動員先の第2海軍航空廠で玉音放送を聴いた。ちょうどこの頃に兄が戦病死した[6]。
それから日本大学農獣医学部拓植学科(現:生物資源科学部国際地域開発学科)に入学したが、翌1946年(昭和21年)まで芸者遊びや喧嘩に明け暮れる日々を送った[7]。しかし、本人曰く「合格した確かな記憶が無く、籍があったかどうかも不確かだった。学歴詐称を疑われる恐れもあったので、大学の同窓会の誘いも丁重にお断りしていた」と言う。ただ、大学生時代に応援団の活動はしていた。東京の高田馬場に下宿していた当時、いつも連れ立っていた同郷の先輩に早稲田大学の学生が居たことから、早大に自然と出入りするようにもなり、早大の応援団に交じって東京六大学の応援活動をしていた[8]。
青年団活動を行っており、竹下登や野中広務と知り合う[9]。君津郡連合青年団長、千葉県連合青年団長、日本青年団協議会顧問を務めた。
政治活動[編集]
富津町議会議員・千葉県議会議員を経て、2度目の挑戦となった1969年(昭和44年)の衆議院議員選挙で自由民主党から旧千葉3区で初当選し、川島派に加わった。以後、通算当選7回(当選同期に小沢一郎・羽田孜・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三・綿貫民輔・塩崎潤・森喜朗・村田敬次郎・松永光・江藤隆美など)。
1973年(昭和48年)には中川一郎・渡辺美智雄・石原慎太郎らと共に自民党の派閥横断的な政策集団である青嵐会を結成、マスコミ対応の事務総長を務めた。この頃から武闘派議員としても有名になり、数々の逸話を残す。農林水産政務次官・防衛政務次官・衆議院建設委員長・予算委員長などを歴任したが、予算委員長は「宮本顕治人殺し」発言で辞任を余儀なくされた(後述)。
1990年(平成2年)の総選挙の際に暴漢に襲われて失語症の傾向が出たため、1993年(平成5年)7月に息子である浜田靖一に地盤を譲り、政界を引退した。当選7回を数えたが、国務大臣への就任は1度も無かった。
この間、勲2等の叙勲、国会議員表彰、共に辞退している[10]。
政界引退後[編集]
議員引退後の1993年(平成5年)12月に著書『日本をダメにした九人の政治家』(講談社)を出版し、1995年(平成7年)4月までに発行部数168万部のミリオンセラーとなった。同著では自分自身をその中の1人として自省している。またタレント活動を活発化させ、数多のバラエティ番組に登場。1994年(平成6年)には連続テレビドラマ『お玉・幸造夫婦です』で、八千草薫と夫婦役を演じた。その他にも主に政治を話題としたバラエティ番組に出演し、歯に衣着せぬキャラクターには一定の人気があった。
2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙では自由民主党の選挙用テレビコマーシャルに出演。
2010年(平成22年)1月21日、アメーバブログにてオフィシャルブログを開設した。同年1月25日にはTwitterのアカウントを取得した。
2010年(平成22年)8月10日、借金の担保として差し出したアドバンスト・メディアの株券800株を勝手に売却し、融資元の会社に2億円の損害を与えたとして、千葉県警察捜査2課などに背任罪で逮捕され、千葉地方検察庁は8月31日に、千葉地方裁判所へ起訴した[11]。
しかしその後、認知症が進むなど訴訟能力に疑問が生じたため、公判は停止された[12]。2012年(平成24年)8月5日、急性心不全のため富津市大堀の自宅で死去した[13][14][15]。83歳没。背任罪の公判は、被告人たる浜田本人が死亡したことで、8月8日に刑事訴訟法の規定により公訴棄却が決定し終結した[12]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%B9%B8%E4%B8%80
浜田幸一さんは面白い方ですよね。
タレントに近いかと思いますが、、、
畑田重夫 政治評論家
来歴[編集]
京都府生まれ。東京帝国大学卒業。帝大在学中20歳で学徒出陣となるが、その際学友の乗っていた船が撃沈され全員が死亡した[1]。1945年9月に東京大学法学部に復学、大学卒業後、内務省を経て1962年まで名古屋大学助教授を務め、以後は労働者教育協会会長や勤労者通信大学学長などを歴任。
1987年、1991年の各東京都知事選挙に無所属(日本共産党推薦)で出馬するも落選。1987年には都政問題研究所を立ち上げ所長となる。現在も平和及び労働運動に関する講演を全国各地で行っている。『しんぶん赤旗』紙上にてエッセイ「憲法と生きる」を連載中。
人物[編集]
シベリア抑留について「強制労働という言葉を使う人がいますが、働いてノルマをさえはたせば食糧を配給してくれるというのが実態であり、それを日本にいた当時は、土方のような仕事をしていた人や、失業者であった人たちは、『ソ連という国は天国だよ。働きさえすればちゃんと食えるんだから』といいますし、仕事もしないで親のスネをかじっていたオ坊ッちゃんめいた人は『強制労働をやらせやがった』という表現をとるのです。」と発言した[2]。
主著[編集]
単著[編集]
- 『新安保体制論』(青木書店、1966年)
- 『民族と民族問題』(新日本出版社、1967年)
- 『共産主義のはなし』(日本青年出版社、1968年)
- 『学生運動と統一戦線の思想』(汐文社、1969年)
- 『青年と軍国主義』(日本青年出版社、1971年)
- 『安保のすべて』(学習の友社、1981年7月)
- 『日米韓“運命共同体”と教科書問題』(あゆみ出版、1983年6月)
- 『PKO法と安保』(学習の友社、1992年12月)
- 『戦後50年の原点 - 歴史の転換点にたって』(学習の友社、1995年4月)
- 『安保問題のすべて - 安保大改悪と日米共同宣言』(学習の友社、1996年6月)
- 『自動参戦・列島総動員の新「ガイドライン」―安保・有事立法・改憲策動』(学習の友社、1997年11月)
- 『どうみる新しい内外情勢 - 畑田重夫大いに語る』(学習の友社、2010年2月)
共著[編集]
- 『現代朝鮮論』(勁草書房、1966年)藤島宇内との共著
- 『日本の未来と安保』(学習の友社、1967年)北田寛二との共著
- 『朝鮮問題と日本』(新日本出版社、1968年)川越敬三との共著
- 『70年闘争とアジアの未来』(新日本出版社、1969年)川端治、唐沢敬との共著
- 『国際勝共連合 - その「理論」と危険なねらい』(学習の友社、1979年1月)山科三郎との共著
- 『日本の防衛 - 青年をねらう80年代安保』(学習の友社、1980年6月)熊倉啓安との共著
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%A4%AB
国際政治評論家と言ったらこの方ですよね。
アジアの国際政治評論家と言っていいほど、アジア系の国際をわかっている方です。
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