あえば直道 政治評論家

 

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政治評論家を名乗る人の中には自民党に近い人、立憲民主党に近い人と特定の党派との距離が接近している人がいますが、あえば直道さんはなんと共和党との距離が近いことをアピールする政治評論家です。自身も出馬経験があるなど、異色の政治評論家です。
1967年1月5日、52歳のあえば直道さんは神奈川県横浜市の出身です。実家は弁護士をしており、エリート教育が行われ、1973年には慶應義塾幼稚舎に入学し、それ以降慶應義塾大学の入学までエスカレーター式で神学を続けます。高校時代には弓道でインターハイに出場するなど、文武両道を行っています。


その後、大学時代に幸福の科学に入会し、学生部などの要職を務めると、大学卒業後幸福の科学総合本部に入局します。それ以降は幸福の科学系の映画に出演するなどしつつ、表舞台に出ず、本部内で様々な仕事を行い、理事も務めます。
あえば直道さんの名前が登場したのは2009年5月のこと。この当時、時の総理である麻生総理が様々な理由を付けて衆議院解散を先延ばしにし、任期満了を迎える2009年8月あたりに選挙が行われると言われていました。幸福の科学では多くの選挙区に候補者を擁立し、議席獲得を目指し、幸福実現党を立ち上げます。その時の初代党首としてあえば直道さんの名前が登場し、会見では日本のオバマになりたいと語るも2週間後、投手を交代させられ広報本部長となり、翌年の参院選比例区から出馬するも落選。その後、北米の担当としてアメリカにわたります。


しかし、2012年、とんでもないニュースがアメリカから飛び込んできます。あえば直道さんが共和党の顧問に就任したというのです。その前年、東日本大震災で米軍が危険を顧みず被災地活動を協力してくれたことに感謝するスピーチを行い、それがきっかけで共和党の養殖に就く人物との交流がスタート。その後情報交換が行われ、共和党の顧問になったという流れです。


現在の大統領トランプ氏は全く注目していない頃から指示をしており、大統領になると日本側の窓口として活動しています。2018年にはトランプ大統領、ペンス副大統領と会談を行い、メインホールで演説を行うなど、トランプ政権に近い存在となっており、日本では政治評論家としてそうした話題を提供している状況です。その真偽が色々と取りざたされ、将来的な国政挑戦も視野に入れているとの話もありますが、日本人でこれだけ共和党関係者との距離が近い人はなかなかいません。

 

 

橋下徹 政治評論家

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政治を語る人物の中には当然政治経験がある人も多いですが、知事や市長、国政政党の代表を務め、政治に対して鋭く切り込んでいける橋下徹さんはこれまでの日本にいなかったタイプの政治評論家です。


1969年6月29日、50歳の橋下徹さんは東京都渋谷区で生まれます。父親をすぐに亡くし、小学生の頃に大阪府に引っ越し、その後苦労を重ねて、名門校である北野高等学校に進学すると、ラグビー部に入り、全国高校ラグビーに出場し、高校の日本代表候補にまでなります。その後、早稲田大学政経学部に入学しますが、学生ビジネスでトラブルに巻き込まれたことをきっかけに法律家を目指し、大学卒業の同じ年、司法試験に合格。何度も落ち続ける人がいる中、橋下さんはわずか25歳で合格を果たします。
その後、弁護士となり、1998年には事務所を設立、示談交渉での解決を目指すことに力を入れ、営業活動に力を入れ、主に民事を中心に活動します。この大阪時代から大阪の番組に出るようになり、2003年には現在も続く、行列のできる法律相談所にレギュラー出演、事務所は爆笑問題が所属するタイタンということでサンデージャポンや笑っていいともなどにも出演し、弁護士以上にタレントとしての活動が強まる一方、時事問題に舌鋒鋭く発言し、お茶の間の注目を集めます。


2008年、大阪府知事選が行われ、初当選を果たします。2万%ないなど出馬を否定する発言をしながら最終的に出馬し、圧倒的な大差で当選すると、大阪府の借金体質、税金を無駄に使ってもなんとも思わない姿勢が明るみになり、1期目は職員とバトルし続ける様子が盛んにテレビで報道されます。ところが、当時議会ではオール野党状態だったため、2010年に自民党を集団離党してきた松井一郎氏とタッグを組んで大阪維新の会を結党、その余勢で国政政党を立ち上げ、一時期はこのまま政権交代まで狙えると注目を集めますが、大阪府の改革に専念。2015年、悲願だった大阪都構想住民投票で惜しくも否決されたことで、その責任を取って大阪市長の人気を満了した時点で政界から引退します。


その後、政治評論家として政治を語る他、大阪維新の会の側方支援を行うなどし、Twitterでは鋭い言葉で当事者に疑問を投げかけるなど橋下節は健在。国政選挙のたびに橋下さんの動向が注目される他、現在の安倍内閣との関係が非常に近く、食事に行くことも見られ、大阪万博G20の誘致成功、カジノの設置などにも影響を与えていると言われています。橋下さんの発言から目が離せません。

 

池上彰 政治評論家

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現在政治評論家、ジャーナリストとして人気ナンバー1と言える存在が池上彰さんです。ジャーナリストとしてテレビに引っ張りだこである他、数多くの大学で教授として活躍し、多くの若者に分かりやすく授業を行っています。

 

1950年8月9日、2019年で69歳を迎える池上彰さんは、長野県松本市で生まれます。すぐに東京に移り住み、練馬区で育ちますが、そのルーツは松本です。銀行員を務める父親は小学生が読まないような難しい本を買い与える人物でした。その後、記者になることを志した他、大学時代、大学での紛争が当たり前になっていたものの、報道と実際の状況が違うことに疑問を持ち、地方勤務から始められるNHKへの入社を決めます。


池上さんは様々な注文を1年目から行い、あえて小さな放送局に行けるように求めます。松江放送局では記者が少なかったことで池上さんがフル回転しなければならず、警察、役所、裁判所など様々なところで取材が行え、日本の仕組みを学べました。人数が少ないながらも精力的に活動した池上さんは、1979年東京に戻り、区役所と警察署だけを回るという任務をこなし、それ以降は様々な事件の記者として活動します。


1989年からはニュース番組のキャスターを務めますが、この経験が考えを改めさせます。それまで記者として原稿を書いてきたものの、いざニュース原稿となると非常に分かりにくく、分かりやすくニュース原稿を修正するようになります。池上さんを有名にさせた週刊こどもニュースでは、それをより具現化し、大人でも分かりやすいニュースを心がけるなど現在につながる活動をしていきますが、2005年定年前だったにもかかわらず、NHKを退職しフリーとなります。


フリーランスになってからしばらくは、こどもニュースのお父さんだった人としてコメンテーターに呼ばれるなどしましたが、2008年に放送されたテレビのレギュラー番組でニュース解説者として出演し、大変好評だったため、自らの冠番組に切り替わると、選挙特番における池上さんのタブーへの切り込みなどが絶賛されます。報道があまり得意ではないテレビ東京において、池上さんが出演する選挙特番だけは他の民放を凌駕する状況です。


あまりにも忙しくなったことで全番組の降板を宣言した2011年に東日本大震災が発生したことで、なし崩し的に出演を継続。再びレギュラー番組の本数を増やし、現在に至ります。分かりやすさと中立な立場で攻め込んでいく池上さんのスタイルは唯一無二です。

嘉治隆一 政治評論家

 

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政治評論家というポジションは今でこそ多くの人に与えられていますが、昔はそこまで多くはありません。その中で古くから政治評論家として活動していたのが嘉治隆一さんです。戦争が終わってすぐ論説主幹を担当するなど、その活躍ぶりは日本最初の政治評論家といっても過言ではありません。


1896年8月3日、嘉治隆一さんは兵庫県の神戸で生まれます。学生時代には社会主義や労働運動に関心を持ち、盛んにその論陣を張るようになります。大正9年東京帝国大学、現在の東京大学法学部を卒業すると最初に南満州鉄道で勤務しますが昭和8年に退職、昭和9年東京朝日新聞社に入ります。昭和11年中江兆民陸奥宗光などの研究を行って著書を出すなど、当時の文化人との交友が広かったのも特徴です。
戦争が終わった1945年、その9月には今でも続いている天声人語が登場します。この天声人語を担当したのが嘉治さんでした。1945年9月から1946年4月まで天声人語の執筆を担当し、現在のような形で時事的な話題を扱っていました。


嘉治さんが出版局長の時代には事前検閲と事後検閲の大変さを社内文書に残しています。当時GHQが新聞や雑誌などの検閲を行っており、事前検閲は記事を出す前に検閲を行い、事後検閲は記事が出た後で検閲を行うため、事後検閲の方が鮮度のいいものはすぐに出せるけど、何かあったら恐ろしいことになるというものでした。この中で嘉治さんは、自己検閲という言葉を用いています。これを書いたら検閲で引っかかるという基準は自分で持て、それを忘れたら相当な被害になるという趣旨のものでした。GHQは反米的な意見などを恐れ、それに関する検閲を行っていました。引っかかれば軍事裁判にかけられる、そんな恐ろしい時代だった中、社会主義の運動に強い関心があった嘉治さんは持論を抑えてでも、検閲に引っかからない方を優先、結果的に当時の朝日新聞が一番処分されない新聞となります。


精力的に活動を続け、公演活動などを数多くこなしてきた嘉治さんでしたが、1978年5月19日、81歳でこの世を去ります。政治評論家として明治時代から大正時代、戦争、戦後の日本を見続け、その中で批評を続け、日本を憂い続けた嘉治さん。中江兆民緒方竹虎など、政治の在り方を変えてくれた人たちの言葉などを晩年はまとめる活動をする一方、これ以上戦争の悲劇を繰り返してはならないという思いからか、返還前の沖縄について著書にするなど、後世に語り継がれる作品が多く存在しています。

 

中西輝政 国際政治学者

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国際政治学者として政治を語り、学者としても数々の受賞歴があるなど、輝かしい実績を誇るのが中西輝政さんです。京都大学名誉教授を務めるなど、専門は国際政治史ですが、政治活動も行っており、保守系の政治家との関係が近い人物です。


1947年6月18日、72歳の中西輝政さんは大阪府の出身です。進学校の高校を卒業すると京都大学法学部に進学し、そのまま京都大学大学院に進み、修士課程を修了、その後はケンブリッジ大学で学ぶなど、国際政治学の研究を行います。大学教員として京都大学三重大学などで働き、1989年、中西さんが42歳の時に静岡県立大学国際関係学部の教授に。1995年には京都大学大学院に戻り教授となり、2012年に京都大学名誉教授を務めるまでになります。


受賞歴も多く評価されることが多い中西さんですが、そのスタンスは保守そのもの。それでいて安倍総理のブレーンとして活動していた時期もありました。2003年には当時の安倍議員の選挙運動のはがきに推薦人として登場したことで公職選挙法違反を指摘され、問題になります。政治姿勢を評価しており、当時話題になった美しい国の構想を練るなど関係性は良好だったはずでしたが、後に安倍総理が戦後70年談話など保守派が改めてほしいことを改めてくれなかったことで評価を一変させ、2016年には安倍総理との決別を宣言するにまで至ります。


一方、同じ保守でも小泉純一郎氏に対する評価はいいものではありませんでした。ポピュリズム的なやり方が感心できないとし、実際に行った政策自体も支持をするのが憚られるようなものであったため、批判を強めます。中西さんが願っていたのはもっと保守的な政治をする政治家の存在。だからこそ、安倍総理や元都知事石原慎太郎さんを評価するなど、一貫性がありますが、その中西さんが安倍総理との決別を宣言するということは、それなりのことだったと言えます。


現在も精力的に活動しており、毎年のように著書を出しています。その内容は専門の国際政治に関することから日本の将来を憂うようなものまで様々。その論陣は決して揺らぐことはなく、堂々と自分の意見を発している姿勢は、かなり保守的な政治を望む人たちにとって頼もしく、評価は高いです。一方、テレビ出演はそこまで多くなく、知名度的には高くありません。学者から見たあるべき日本の姿、政治家の姿を語り、賛同を得ることが多いのは間違いなく、今後の論陣の張り方に注目が集まります。

 

田崎史郎 政治評論家

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政治評論家を名乗る人の多くは新聞記者、メディアの記者として政治を扱っていたことから、政治に携わり続けるケースが少なくありませんが、メディアに頻繁に登場する田崎史郎さんもその1人です。安倍総理との関係が近く、時に安倍総理を擁護する発言を連発させ、野党やその支持者から批判を受けることもしばしば。自民党との距離が近い政治評論家です。


1950年6月22日生まれ、69歳の田崎史郎さんは福井県坂井郡三国町の出身です。地元の高校を卒業すると中央大学法学部へ進学しますが、この当時は学生闘争の時代。大学2年生の時には、新東京国際空港の建設反対でも有名な三里塚闘争へ参加したことで逮捕され、警察署に留置される経験をします。


その後、1973年に大学を卒業すると時事通信社に入社。1975年とある異動が左遷にあたり、その理由が労組に所属していただけでこれはおかしいと会社を提訴し、数年後に政治部へ異動することで和解が成立し、その数年後、政治部に移動します。
最初に担当したのが時の総理大平正芳総理の番記者。総理の番記者は政治部の若手がやる慣習があり、それにならった形です。その後担当が変わる中、田中派を担当するようになると、小沢一郎氏など旧田中派系列の政治家を取材する役回りになり、解説委員へ移動、解説委員長になってからは現在のようなテレビでの活躍につながっていきます。現在は定年後の再雇用期間も終了し、完全フリーな政治評論家の立場で政治を語っています。


大胆なことをするのも田崎さんの手口で、一時期仲が良かった小沢一郎氏が全く取材に応じず、それならばということで1994年小沢一郎氏のオフレコ発言を雑誌で紹介し、時事通信から処分されます。このことで当時キャスターをしていた櫻井よしこさんに雑誌上で批判され、記者失格の烙印を押されるほど。オフレコでの発言を記者が勝手に破ることは当時としては許されない行動でしたが、既に取材できない状態なんだから何の問題もないという狙いがあったそうです。


安倍総理との距離は近く、ここ数年は一緒に食事を頻繁に行っており、政権寄りであると批判を受けます。最近ではいかに権力と近いことにいるかを主張する政治評論家が増えていますが、田崎さんはその先陣を切る勢い。一方で難しい政治の話題をできるだけ分かりやすく紹介することも事実で、結果的にキー局のワイドショーに複数出演を果たすなど、ある種のスポークスマン的な扱いを受けています。

高森明勅 皇室研究者

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長年議論が交わされてる皇位継承問題など、様々な論争の中で自分の意見を揺るぎなく主張するのが高森明勅さんです。皇室研究者として皇位継承問題などを語るのと同時に、構造改革など政治にかかわる分野にも精通し、著書も多く出しています。

 

1957年生まれ、令和元年には62歳になる高森明勅さんは、岡山県倉敷市の出身です。千葉県柏市にある全寮制の麗澤高等学校を卒業すると、國學院大學に進学、そのまま大学院の博士課程までを修了し、評論家としてデビュー、著書なども出します。主に皇室に関するコメンテーターとして呼ばれるかたわら、拓殖大学日本文化研究所客員教授を務め、新しい歴史教科書をつくる会では副会長を務めている高森さん。

 

保守的な考えを持っているため、テレビ出演、動画出演などは主に保守的な思想を持つ人たちに受け入れられたものが多いです。その中の1つ、チャンネル桜では、地上波ではあまり取り上げることがなかったようなものを取り上げ、熱狂的な支持を集めましたが、デモ運動などの類には参加せず、意見の食い違いなどもあって、後に降板します。
高森さんはいくつかの主張を持っており、その中の1つが皇位継承問題です。このままでは男系が途絶える、そんな危惧がされ始めた2000年代中期、当初男系継承を支持していましたが、側室制度がない現状では難しいとして女系天皇容認に転換。その中で、直系を優先し、兄弟間では男子を優先すべきと提言します。この意見は、チャンネル桜のキャスター陣の中でも賛否両論が巻き起こります。保守の人でありながら、同じ保守の人からあまりいいように見られていない、正直に物を語るがあまり、敵も作ってしまっているようです。

 

もう1つ、意見で食い違いを見せたのが構造改革の部分です。2000年代中期、小泉内閣の改革路線はあまり保守層の中で受け入れられるものではなく、チャンネル桜でも疑いの眼差しが向けられていましたが、高柳さんはその構造改革にいい感情を持ち合わせており、第1次安倍内閣で成立した改正国家公務員法は、小泉内閣でもできなかった快挙と激賞。選択的夫婦別姓制度にも理解を示すなど、独自の考え方を常に持ち続けます。
テレビなどに登場する機会は皇室関係のコメントを求められる場合に限られているのが現状ですが、どのような環境の中であっても自分の意見はしっかりと述べる、その強い姿勢が高柳さんの大きな特徴であり、高柳さんの良さであると言えます。