辛坊治郎 政治評論家

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関西で人気を博し、東京に進出して知名度を重ねるケースは昔からありますが、現在も第一線で活躍をし続ける政治評論家に辛坊治郎さんがいます。

1956年4月11日生まれ、63歳の辛坊治郎さんは、鳥取県米子市出身です。埼玉県入間市育ちという辛坊さん、父親は自衛隊員で、転勤で米子から入間に生後2か月の時に移り住みます。

早稲田大学法学部を卒業した辛坊さんは埼玉県庁や住友商事といった大企業の内定をもらいながら、フジテレビのアナウンサー募集に参加、最終面接で落選したものの、それを読売テレビが聞きつけ、面接を受け合格。中学時代に経験したテレビ局の親身な対応などもあって、読売テレビへの入社を決断します。

アナウンサーとして入社した辛坊さんはズームイン朝の大阪担当として出続け、1991年からスタートし、現在も続いているウェークアップ!の司会に抜擢されます。ウェークアップ!は桂文珍氏に司会が変わり、降板から12年後復帰を果たします。


政治に詳しくなるのは、1997年報道局解説委員に転身してからで、その後報道局チーフプロデュサーとなり、報道に携わり続け、辛坊さんが自ら出演してかなり分かりやすいニュース解説を行ったことで、その番組を視聴率トップに押し上げます。

報道局情報番組部長に就任すると、翌年ズームインSUPERがスタート、新聞やニュースの解説を行うレギュラーとして出続ける他、同時期に放送が開始された、たかじんのそこまで言って委員会の司会になるなど忙しい日々を過ごします。政治経済なんでも分かりやすく、聞きやすく紹介する政治評論の姿勢は多くの視聴者に支持されています。


基本的にスタンスは中立でありながらも、若干政権寄りなところがある辛坊さん。特に関西では、大阪維新の会が勢力を握っている関係で、大阪維新寄りのスタンスを鮮明にするなど、大阪維新の大躍進に一役買ったといっても過言ではありません。

リニューアルされたウェークアップ!ぷらすには大阪維新の関係者が出演するなど、中立とは思えない姿、意見を出しています。埼玉県に住みながら大阪の雰囲気に順応できたのは、生活環境が関西仕様だったためで、全く違和感がないのはそのためです。

ヨットでの太平洋横断では海上自衛隊に救助される出来事があるなど、波乱万丈な人生を送る辛坊さん。現在はそこまで言って委員会NPの司会を行いながら、テレビラジオで精力的に登場し、政治評論を行うなど、その姿は全国で見ることができます。

二木啓孝 政治評論家

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政治評論家には様々おり、政権などに近づく人もいれば、反権力をメインにする人もいます。比較的反権力側で論評を行っているのが二木啓孝さんです。

1949年11月29日生まれ、70歳を迎える二木啓孝さんは鹿児島県の出身です。二木さんの学生時代はいわゆる学生運動全盛の時代、明治大学在籍中は主に学生運動に力を入れ、現場の最前線にいるなど過激な一面を持ち合わせていました。その後、明治大学を除籍になると長距離のトラック運転手として生計を立て、28歳に週刊ポスト専属のライターとなり、34歳の時、日刊現代に入社します。

日刊ゲンダイを発行している会社であり、二木さんはニュース編集部部長を務めるなど、日刊ゲンダイの編集に携わり、常に政権を批判するという日刊ゲンダイらしさを確立させます。その後、2007年に日刊現代を退職すると、日本BS放送の取締役となり、報道局長を務めるなど、独自の活躍をするようになって今に至ります。


日刊ゲンダイの記者として働いていた時は昼に出勤して、夜の締め切りに備え、次の日はテレビやラジオに出演するというハードな日程をこなしていた二木さん。取材はかなり精力的に行っていた一方、記事によっては適当に書いていたこともあったと告白しています。自民党など保守政党に対して、可なり辛らつに、あまりきれいではない表現でこき下ろすことが多かった一方、リベラル系の政党に対してはほとんどそのような表現をせずに書くなど、明らかな反権力よりだった二木さん。学生運動の時と傾向はあまり変わらず、現在でもそのスタンスは変わっていません。

現在は自身が取締役を務める日本BS放送での報道番組に出演、2019年1月からはBS11の解説委員として報道ライブ インサイドOUTのメインキャスターに抜擢されています。


発言が政権寄りではないことから東京などではあまり出ることができず、主に関西を中心に活動するほか、地方のラジオ番組などで政治などのコメントをすることが多い二木さん。過去には作家として、「手に取るように政治が分かる本」というタイトルで政治をわかりやすく伝えるような本を書いています。

また政治に関する本もいくつか残すなど、執筆で勝負をしてきた人だからこそ、その本もまた刺激的なものが目立ちます。ここ最近は政権寄りなコメンテーターが多く、二木さんのような立場の人は明らかに少数派です。だからこそ、多くの人に響くような多少辛辣な言葉を並べているように感じます。

岩田公雄 政治評論家

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政治評論家は新聞記者だけにあらず、テレビ局の報道記者もまた政治評論家として活動することがあります。読売テレビで解説委員長を務め、現在は学習院大学客員教授BS11の報道番組でキャスターを務めている岩田公雄さんもその1人です。1949年6月3日生まれ、70歳の岩田公雄さんは北海道旭川市の出身です。学習院大学法学部を卒業すると、読売テレビに入社しますが、この時はアナウンサーとして入ります。その後報道記者に転身した岩田さんは、グリコ森永事件など関西で発生した事件事故を追いかけ、1986年からはマニラでの取材を行い、1987年日本テレビ系のキー局のネットワーク、NNN初代マニラ支局長に抜擢されます。天安門事件の取材、平壌からの生中継を実現させるなど、やり手の記者として活躍していきます。


1992年、現在も土曜8時に放送されているウェークアップ!に解説委員として登場し、政治評論家デビューを果たします。全国的に有名な情報ライブミヤネ屋などでも出続け、定年になって以降も第一線で活躍し続けた岩田さん。2015年、66歳の時に読売テレビを退職し、学習院大学法学部の特別客員教授に就任した他、2018年BS11で放送されている報道ライブインサイドOUTのメインキャスターに就任するなど、現在も第一線で活躍し続け、後身の指導に当たっています。


御巣鷹山日航機墜落事故では、その時の取材経験を映画監督に話したことがきっかけで、その監督が事故に関する映画を作ることになった際、取材協力という形で岩田さんの名前が登場しました。マニラ支局長時代には青年海外協力隊に出会い、途上国を取材する際には青年海外協力隊の取材を行っています。その際に出会ったのが後にペルー日本大使公邸人質事件で、ペルー大使として当事者となった青木盛久氏。岩田さんは記者としてペルーで取材を行ったほか、ペルー政府の協力で人質が解放された際にはメディアで初となる単独インタビューに成功します。


単にテレビのコメンテーターとして政治などを語る人ではなく、事件の現場に行って取材したことを伝えるようにしています。当然ながら政治についても取材を基に語っており、近年コメンテーターで目立つ、無知な状態で物事を語るような人ではありません。決して目立たず、誰もが名前を覚えるようなインパクトの強い政治評論家ではないものの、分かりやすく理解しやすいようにニュースを評論する姿は非常に貴重と言えるでしょう。

岸井成格 政治評論家

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政治評論家にも王道があり、新聞で政治部記者を務めて、論評を行うようになる人はその王道にいると言えます。毎日新聞主筆を務め、テレビのコメンテーターとしても活躍した岸井成格さんがその1人です。

1944年9月22日生まれで東京都出身の岸井成格さん、お父さんもまた毎日新聞で働き、政治部長を務めるほか、衆議院議員に転身した方でした。典型的な慶應ボーイの岸井さんは、慶應義塾普通部から慶應義塾高等学校慶應義塾大学法学部を卒業し、毎日新聞社に入社します。1970年に政治部に移動し、様々な記者クラブを担当。当時の佐藤栄作首相が退陣する際の記者会見で、新聞記者を会場から退場させた時に先陣を切って出ていくことになったのが岸井さんでした。その後、ワシントン特派員やサンデー毎日の編集部の異動を経て再び政治部に戻り、政治部長編集委員論説委員論説委員長を経て、2004年には眞一新聞初の特別編集委員、2010年には主筆となるなど、毎日新聞になくてはならない存在となります。


毎日新聞と関係が深いTBSの番組を中心にコメンテーターとして活躍した岸井さん。特にサンデーモーニングでは長らく登場し、コメンテーターのシンガリを務め、これまでに出てきた意見をまとめつつ、全く別の視点から政治などを語ることがありました。2013年からはNEWS23のアンカーを務めるなど、TBSで活躍し続けますが、2015年、安保法案の報道を巡り、メディアの中ではかなり根強く反対を主張したために、安保法案に賛成の立場に立つメディアからの猛攻撃や官邸からの目に見えぬ反発などにさらされた結果、NEWS23のアンカーを降板させられ、守勢に立たされてしまいます。その後、2007年から続くガンの影響もあって体調は悪化、それでもテレビに出続けますが、2017年11月以降はテレビに登場せず、2018年5月、73歳という若さでこの世を去りました。


早稲田大学では客員教授を務めるなど、後身の指導に当たっていた岸井さん。日本ニュース時事能力検定協会では理事長を務めるなど、分かりやすくニュースに触れ、時事的な知識を深める活動を行っていました。岸井さんはリベラルの立場から政治を見ており、保守化、右傾化が進む日本において徐々に目立った存在になっていきます。岸井さんが亡くなって以降よりその傾向は強まっており、天国で何を思うのか、岸井さんなら今の政治、国際情勢をどのように語るのか、非常に気になるところであり、まだまだ長く生きてほしかったです。

杉村太蔵 政治評論家

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ひょんなことで政治家になり、キャラクターを最大限に活用して政治評論家になる方がいます。その名は杉村太蔵さんです。

1979年8月13日生まれ、まだ40歳の杉村太蔵さんは、北海道旭川市の出身です。父親と祖父が歯科医だったという杉村さん、親がテニスをしていた関係で杉村さんもテニスをやるようになり、高校時代には国体で優勝、筑波大学にスポーツ推薦で入学し、ひいおじいさんが弁護士だったため、弁護士を目指すことになります。しかし、そう簡単にはいかず、6年目の年に中退を余儀なくされます。

派遣社員としてビル清掃を行っていたところ、証券会社で働くドイツ人に誘われ、証券会社の契約社員に。当時盛り上がっていた郵政民営化についてリサーチしていた杉村さんは、自民党の候補者公募の課題論文に郵政民営化の話題が出ていたことで、応募を決意。2005年の衆院選で、比例南関東ブロック35位で出馬となります。本来当選者は出にくい順位ながら、郵政選挙自民党が圧勝、その関係で杉村さんも当選しました。まだ26歳、衆議院解散時は被選挙権ギリギリの25歳だったことを考えると、若者代表として期待が集まるのは当然です。


衆議院議員になった杉村さんでしたが、政治家にしてはあまりにも軽い発言を当選直後から連発させたことで、小泉チルドレンを象徴とする人物と揶揄されてしまいます。最後までそのキャラを払しょくできなかった杉村さんは、次期衆院選の公認争いに敗れ、出馬できず、2010年の参院選たちあがれ日本から出馬したものの、落選。これを受けて杉村さんは政治家から足を洗い、自らの軽すぎるキャラを逆に活用し、「薄口政治評論家」を名乗りだします。

他にはあまりいないポジションだったこともあってか、面白おかしく政治を取り扱いたい番組、社会を斬りたいバラエティなどで大活躍し、現在に至ります。ただ、2016年には慶応義塾大学大学院に合格するなど、勉強は欠かさないようにしており、成長しようという意欲は見られます。


政治評論家になる前には世界各国を渡り歩き、雇用など様々な文献を読み漁るなど、政治を学ぶ姿勢を見せ、軽さこそあるものの、確かな発言と決してブレることのない意見を出す杉村さん。地元北海道の経済番組では、隔週でメインキャスターを務めており、地元でも存在感を見せています。まだ40歳と若く、政治評論家としてのキャリアを積み重ねれば今後は再び政治家として注目を集める日も近くなるかもしれません。

浜田幸一 政治評論家

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政治部出身の新聞記者、元秘書、官僚など様々な経歴を持つ人が政治評論家を務めていますが、一番説得力がある政治評論家は元政治家ではないでしょうか。その中の1人で、お茶の間でも知られる政治評論家だったのが浜田幸一さんです。1928年9月5日、浜田幸一さんは千葉県君津郡青堀町で生まれました。父親は地元の名士でしたが、敗戦後に戦犯者として扱われ公職追放の憂き目に遭い、一気に転落し、破産に追い込まれます。父親の無念を晴らす、浜田幸一さんは強い決意を胸に秘めます。


浜田さんは日本大学に入学しますが、遊びに明け暮れて中退。ただ、地元では青年団の活動に参加し、後に総理を務める竹下登さんなどと知り合います。富津町議、千葉県議を歴任し、1969年、2回目の挑戦で衆議院議員選挙に初当選を果たします。その後、世間で知られるような暴れん坊ぶりを発揮し、数多くの問題行動を起こしますが、同時に行動力があり、政務次官予算委員会の委員長を務めるなど活躍。最後まで大臣にはなれませんでしたが、この息子は浜田さんの息子靖一さんが果たしています。


1993年、総選挙に出馬せずに引退すると、その直後、「日本をダメにした九人の政治家」という本を出します。浜田さんが政治家として許せない人物を書いた本でしたが、これが100万部を超えるベストセラーに。政治評論家としてこれ以上ないスタートを切った浜田さんは、タレントとしても活躍するほか、TVタックルに出演し、若手議員を相手に歯に衣着せぬ発言、暴言スレスレの苦言などを披露するなど、お茶の間の人気を集めます。無鉄砲に発言をする印象がありながらも、実際は計算をして発言することも。自らが勉強ができなかった分、息子を留学させ、政治の帝王学を学ばせるなど、先を見る目があったのも特徴的です。


田中角栄三木武夫福田赳夫など過去の総理大臣に直接暴言を浴びせるなど、怖いもの知らずだった浜田幸一さん。晩年はブログやTwitterといった最新技術にもチャレンジしていました。しかし、2010年に背任の容疑で逮捕されるなど最後までトラブル続きだった浜田さんは、認知症などの症状が進行したことで公判が停止され、最終的には83歳でこの世を去ります。これまでに多くの政治評論家が世に出ていますが、タレント性の高い政治評論家の先駆けであったことは言うまでもなく、政治家としてはもちろん、政治評論家としても確かな実績を残しました。

早坂茂三 政治評論家

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令和の時代でも偉大な政治家として語られることが多い田中角栄氏。その田中角栄氏の最も有名な著書といえば日本列島改造論です。この日本列島改造論の名付け親が早坂茂三さんです。1930年6月25日生まれ、早坂茂三さんは北海道函館市で生まれます。実家は呉服店早坂茂三さんは、地元の高校を出た後、早稲田大学政治経済学部新聞学科に入学します。この当時、学生運動が激しく、その影響で日本共産党に入党することに。新聞学科ということもあり、新聞記者になろうとしますが、結果的にこの経歴がアダとなり、大手新聞社には入社できず、今は無き東京タイムズに就職。政治部記者として番記者などを務めますが、その時に出会ったのが田中角栄氏です。


早坂茂三さんが32歳の時、当時大蔵大臣だった田中角栄氏に呼ばれると、天下を取ろうじゃないかという誘い文句に乗っかり、田中氏の秘書となります。総理大臣になる前の田中氏の秘書になった早坂さん、とても忙しい日々を過ごし、田中氏の政治哲学を吸収していきます。しかし、いつも蜜月だったわけではなく、1974年には、ジャーナリストになるべきだと秘書の世界から足を洗うよう、田中氏から促されます。それでも秘書として忠誠を誓う早坂さんは支え続けさせてほしいと懇願、その後、田中氏の逮捕などで世間からバッシングを受けたことで、マスコミに対する敵愾心を持つようになります。


政治評論家に転身するきっかけは悲劇的でした。きっかけは田中氏の病で、重い脳梗塞になった田中氏の治療方針を巡り、娘の田中真紀子氏と対立。これをきっかけに早坂氏は追放され、政治評論家への転身を余儀なくされました。転身後、事情を知る多くの政治家から激励され、田中角栄のこれまでの歩みを語る役回りを務めるようになります。これまでの半生を振り返りつつ、人生論を若者向けに発信するなど精力的な活動を行っていた早坂さん。政治評論家として、政治家や財界人とのトーク番組を持つなど、実績を着実に積み重ねていきます。1999年には、フジテレビの番組「日本のよふけ」に出演し、今の政治に対する批評を重ね、存在感を発揮。2004年、早坂茂三さんは肺がんで74歳の生涯を閉じますが、最後の仕事は当時話題を集めた綿矢りささんと金原ひとみさんの芥川賞の作品についての論評で、鋭い批評を行っています。思ったことをストレートに述べた早坂さん、今の時代にこそ活躍してほしい政治評論家でした。