あえば直道、一般社団法人JCU議長ってどんなお仕事をしているのか?まとめてみました。

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRlubvEjLMHj8-OnVhGfbGg1TGqOHl9yMF8TqPC6bz2sc_PmLhr&s

政治評論家の肩書を持つ人は、実際に自分の事務所を立ち上げるなどして活動を行っています。あえば直道さんもその1人で、一般社団法人JCUの議長として活動を行っていますが、このJCUがどのような活動をしているのか、気になるところです。簡単に、あえば直道さんのプロフィールを説明すると1967年生まれの現在52歳、2011年に渡米して共和党の顧問になったという方です。何もコネクションがない中で共和党の顧問になったというストーリーが衝撃を与えましたが、もう1つ衝撃的だったのは、共和党の日本側パートナーとして一般社団法人JCUを立ち上げたことです。

ここからはJCUについて説明をします。JCUはThe Japanese Conservative Unionの略で、日本の保守政治を盛り上げていく意味合いがあります。共和党アメリカの保守政治を担ってきた政党で、基本的なスタンスは政府が大きな支出をしないという小さな政府、そして減税です。
このアメリカの保守主義と、日本で育まれてきた保守思想、2つの保守の考え方を融合させて、日米関係の構築を図れるような活動をしていくために、一般社団法人JCUが発足されました。活動概要を見ると、日本での保守とは何かを定義、国会議員の中で保守に関するスコアをつけていきます。このスコアは日本的な考えでの保守ではなく、アメリカの保守主義を加味してのスコアです。そのため、小さな政府を目指すうえでの貢献や減税、規制緩和、当然日米同盟といったところにまで、いかにその国会議員が貢献をしているのか、チェックを行っていきます。それでいて、日本にもアメリカ流の保守を根付かせていき、本来の保守とはどういうものか、環境を構築していく狙いがあえば直道さんにはあります。そうしたこともあり、日本だけでなくアメリカの大物保守政治家を招き、様々な観点からの保守政治を目指していきます。
元々一般社団法人JCUで代表理事を務めていたのが江口峻さんです。江口さんは産経新聞で働き、記者ではなく、販売の方で実績を上げ、産経新聞の取締役にまで出世し、2015年、あえば直道さんと一緒にJUCを立ち上げます。2019年7月、江口さんは代表理事を退任し、ファウンダーとして支えています。これを受けて、あえば直道さんはそれまで議長でしたが、2019年7月から江口さんに代わって代表理事を務めることになります。共和党の支持母体である全米保守連合、ACUのカウンターパートとして設立したJCUが着実に歩みを続けている証拠とも言えそうです。
そんなあえば直道さんが、JUC議長の肩書で出した本が「トランプ革命」という本です。アメリカ国民がなぜトランプ氏に注目するのか、もし大統領になったら日本はどうなるのか、トランプ革命の中であえば直道さんは語っています。
この本のすごいところは、2016年3月という、まだそこまでトランプ大統領の実現度が高いとは言えない状況で出版に踏み切ったこと。当時は多くの反対があえば直道さんの周りであったそうですが、これを乗り越えて出版、結果的にこの本はベストセラーになります。トランプ大統領誕生を予見したというのが大きく、勝ち馬に乗っかるつもりもなかった姿勢もあえば直道さんの価値を高めたといっても過言ではありません。あえば直道さんは、アメリカで出された本の翻訳や監修なども手掛けています。
2018年、満を持して発売したのが、トランプのアメリカという本です。アメリカでベストセラーになった本の日本版で、あえば直道さんが作者であるニュート・ギングリッチ氏にインタビューを敢行するなど、こちらも高い評価を集めます。このようにJCU代表理事としてアメリカ政治とはどのようなものか、トランプ大統領の功績とは何かを、共和党の関係者としても頻繁にアメリカにわたるあえば直道さんが語ることでリアリティを持って接することができます。当然ながらあえば直道さんは国際的な活動をしており、先日大阪で開催されたG20の際、世界ウイグル会議特別指導者であるラビア・カーディル氏との会談がセッティングされました。中国に属しながら宗教間の違いから独立を模索するウイグル人、中国政府からの不当な人権侵害に立ち向かうカーディル氏。JCUではアジアの自由だけでなく、民主主義を実現させていくことを求めており、カーディル氏の活躍に注目を集めています。
JCUでは会員を募っており、ネットワークパートナー、プレミアムメンバーなどがいます。ネットワークパートナーになれば、ネットワークパートナー専用のイベントに参加できる他、アメリカやアジア各国からやってくる保守政治家や要人のトークイベントなどへの参加などが行えます。
プレミアムメンバーになると、JCU論説の解説動画や日本政策学校での講座などが受けられます。あえば直道さんはこのようなイベントに頻繁に顔を出すほか、アメリカの現状を事細かに話すだけでなく、日本のメディアでは報道をしないようなことまで明らかにします。日本のメディアを一切信用していない人からすると、あえば直道さんの言葉はどれも新鮮であり、信ぴょう性を感じさせるものばかりです。そのため、あえば直道さんは日本全国を回り、JCUの活動を行っていくだけでなく、様々な関係者に講演をしてもらうほか、若者たちもあえば直道さんの活動に協力するなど、大きなウェーブとして盛り上げていくようなことを行っている状況です。
あえば直道さんがすごいのは、アメリカなどに行けば共和党のイベントなどで登壇して演説が行える点です。2019年にはCPACと呼ばれる、共和党がメインの保守系イベントに参加。あえば直道さんは当時JCU議長として4年連続で登壇し、日本の保守主義が劇的に広まっていることをアピールし、会場は大盛り上がりになります。その後に登壇をしたのがトランプ大統領。会場の熱は最高潮に達し、アメリカ保守政治の熱の高さを感じ取ることができました。JCUではこれに先立ち、ワシントンにあるホワイトハウスなどを訪問し、実際のその雰囲気を体感。こうしたイベントに参加するのも先ほどのネットワークパートナーなどです。JCUのブースもCPACの中で展示されており、日本の保守政治がどのような状況なのかや暗号通貨のことなども紹介しています。暗号通貨に関するセッションではあえば直道さんも議長としてスピーチを行ったほか、日本から和太鼓を持ってきてもらい、日本の文化に触れてもらうというユニークなこともしています。トランプ・ジュニアもJCUのレシェプションに参加しており、記念撮影を行うなど、アメリカの保守政治家や関係者に対する顔の広さを感じ取れます。
このように、あえば直道さんはアメリカの保守を間近で学び、それを日本で広げていく活動を行っています。その行動力は保守層からも段々と支持を集め、アメリカ共和党とのパイプを担う1人として注目されている状況です。トランプ大統領は改選を控えていますが、ライバルの民主党の動きが鈍く、再選は確実視されています。すると、ますますアメリカと日本の関係性が注目を集めることになりそうですが、あえば直道さん、一般社団法人JCUがますます活躍することになるのは間違いでしょう。一般社団法人JCUの活動などを含め、あえば直道さんの活動に注目していかなければなりません。

後藤謙次 政治評論家

f:id:hyouronka:20200109042952j:plain

 

政治評論家はどこか横柄で、偉そうな印象がありますが、物腰が柔らかそうで口調も優しめの政治評論家がいます。それが後藤謙次さんです。1949年10月5日生まれ、70歳の後藤謙次さんは東京都の出身です。早稲田大学法学部を卒業した後藤さんは共同通信社に入社、函館や札幌などで働いた後、1982年に本社の政治部へ異動し、首相官邸自民党、外務省、各種記者クラブに属します。その後編集委員政治部長、編集局長を務めます。その間、後藤さんはコメンテーターとしてTBSのイブニングファイブに出演するなどテレビでの活動も行います。2007年共同通信社を退社すると、2007年12月から筑紫哲也NEWS23のメインキャスターとして登場。この時すでにガンに侵され、出演する機会が少なかった筑紫哲也さんをスペシャルアンカーに据えて、その後釜に入った形です。


その後2009年までメインキャスターを務め、TBSが鳴り物入りでスタートさせた夜7時台も放送された報道番組のアンカーとして出演するなどTBSを中心に出演してきましたが、その後他のテレビ局への出演も解禁に。テレビ朝日報道ステーションスーパーJチャンネルコメンテーターや文化放送BSフジのニュース番組のコメンテーターとして登場するなど幅広く活動し、現在もその人気は衰えることがありません。激しい口調、論調ではなく、優しく疑問を呈し諭すスタイルが好評を集めます。


政治部記者だった時代は竹下登氏などの番記者を務めた他、小沢一郎氏の政治的な影響力が絶大だったことへの危機感を持った竹下氏が団体を立ち上げ、メディアや大企業の幹部が参加し、後藤さんはその世話人となりました。共同通信社時代から政治家との強い絆、太いパイプを持ち合わせていた後藤さん、今もそのパイプを使いながら政治評論を行っています。


後藤さんは著書も多く、一番最初に発売したのは当時はまだ総理候補にもなっていなかった小渕恵三さんの著書でした。活発に著書が出始めたのは後藤さんが共同通信社を辞めてからで、竹下登氏や小沢一郎氏、平成の政治史、最近では若い人を対象に政治を語りかけるような著書も執筆している状況です。日本テレビ以外はほとんどの局に出演し、政治評論を行っている後藤さん。その勢いはとどまるところがなく、今後も政治評論をする姿を見ることができそうです。まだ波乱がありそうな令和時代の政治をどのように見ているのでしょうか。

岩見隆夫 政治評論家

f:id:hyouronka:20200109042845j:plain

 

亡くなる直前まで政治評論家として日本を憂いてきた人物がいます。それが岩見隆夫さんです。1935年10月6日生まれ、当時は日本が管理していた大連出身の岩見隆夫さん。日本に帰国後は山口県防府市で育ち、地元の高校を卒業後、京都大学法学部に進学。卒業した岩見さんは1958年毎日新聞社に入社します。最初は社会部記者、その後、政治部記者、政治部副部長、論説委員サンデー毎日編集長など様々な職に尽きます。そして2007年、71歳まで毎日新聞に在籍し、その後は政治評論家に転身します。


政治評論家になった岩見さんですが、1989年、まだ毎日新聞に在籍する頃から、毎日新聞サンデー毎日に連載を持ち、2013年まで実に25年ほど週に1回のコラムを書き続けました。どちらかといえば左派よりの毎日新聞の中で保守的な考え方を持つ論客として出続けます。政治評論家としては連載やコラムで高い評価を厚め、過去には日本記者クラブ賞を受賞するなど立派な活躍を残しています。テレビにも出ることが多かった岩見さん、TBSだけでなく、フジテレビやテレビ朝日にも出演。特にテレビ朝日の番組、やじうまワイドやじうまプラスに長年出続けるなど、その姿を毎週のように見ることができました。またTBSの開局当初から放送され、途中中断していた時事放談が復活した際には、岩見さんが司会を担当。政治のことを語る番組のホストを務めます。また、みのもんたのサタデーずばッとでは毎週のように出演し、みのもんたさんとのやり取りも話題を集めます。


著書は数多く、田中角栄氏や橋本龍太郎氏、岸信介氏などの本や平成に起きた政治の変化についての本なども数多く書いてきました。息子は市議会議員を務めるなどジャーナリストの道ではなく、政治の道へ進むなど、政治を報じる側、政治を行う側に分かれた形です。


2013年になり、肝がんであることを公表、しかも末期であると明らかにし、緊急手術を受けて仕事を完全にストップさせて治療に専念します。それでもコラムだけは継続させますが、体力の限界が訪れ、2013年末にはコラムはストップ。2014年1月18日、肺炎でこの世を去ります。78歳の生涯でしたが、昭和から平成の激動の政治を現場から見続け、後輩たちの指導にあたってきた岩見さん。そのマインドは今も多くの記者たちに受け継がれていることでしょう。

麻生良方 政治評論家

f:id:hyouronka:20200109042556j:plain


元政治家が政治評論を行う、今はかなり多いですが、昔も元政治家の政治評論家はそれなりにいました。その中の1人が麻生良方さんです。1923年12月15日生まれ、東京都の出身の麻生良方さん。無産政党の指導者で日本社会党の源流にあたる政党を指揮していた麻生久氏を父に持ち、少年時代は詩人を目指し、自らの詩集を自費出版するほどでした。そんな麻生さん、早稲田大学文学部を中退すると、父を追うように日本社会党に入党。その後、浅沼稲次郎氏の秘書となり、自らも政治家を目指しますが落選。その後日本社会党と袂を分かれ、浅沼氏の選挙区に刺客として送り込まれますが、この時に浅沼氏が暗殺され、麻生氏は裏切り者扱いをされて、苦戦を強いられます。


その後選挙に3回連続当選した麻生さんでしたが、1972年に落選すると政治評論家に転向。マスメディアで活動を行っていく中で再び立候補し堂々のトップ当選。今では珍しくないものの、当時は珍しかった無党派を前面に出した無党派クラブを立ち上げます。その後、東京都知事選に立候補するも落選、以降は政治家廃業宣言をして政治評論家に完全シフト、晩年は政治評論を中心に活躍します。


ロッキード事件では自民党金権政治を舌鋒鋭く批判し、それがメディアに大変好評で、様々な媒体で活躍するようになります。麻生さんが政治家として活躍した時代は左派が圧倒的に強かった時代で、革新政党に所属する政治家が主要な自治体の首長を務めており、麻生さんもそれに乗っかる形となりました。政治家としての実績よりも、落選した時期に政治評論家としてロッキード事件を批判していた時の方が実績があるような人物とも言えます。交友関係としては三島由紀夫さんと交流を盛んにしており、三島由紀夫さんの小説のモデルになったこともありました。また文芸雑誌などにも明るく、政治の舞台よりも芸術などの分野で有名になった時期もあります。


しかし、そんな麻生さんも年齢を重ねていく中で病魔に倒れてしまい、思うような活動ができなくなります。活動がセーブされ、1995年2月21日麻生さんはこの世を去ります。71歳という年齢はまだまだこれからという年齢だったこともあり、世間に衝撃を与えました。数奇な運命をたどり、まさに波乱万丈といえる麻生さんの政治家人生、そして政治評論家としての活躍は今の人たちにも見習ってほしいものがあります。

片山善博 政治評論家

f:id:hyouronka:20191210043542j:plain

 

政治評論家の中には、教授の肩書を背負ってやってくる人もいます。鳥取県知事を2基、総務大臣を務めたこともある片山善博さんもその1人です。1951年7月29日生まれ、68歳の片山善博さんは岡山県岡山市の出身です。両親が共に教師だったという片山さん、地元の高校を卒業すると東京大学法学部へ入学し、卒業後は当時の自治省へ入ります。その後、鳥取県庁などへの出向や自治大臣秘書官などの役職を経験し、1998年に退官。翌年の鳥取知事選挙に出馬し初当選を果たします。


県知事時代は改革派知事として名を上げ、その姿勢は共産党も認めたため、2003年の知事選に対抗馬を出さず、知事選では珍しい無投票当選を果たします。その後、2期で知事を退任する意向を見せ、同じ年に鳥取大学客員教授に就任し、2009年からは民主党政権行政刷新会議に呼ばれ議員となり、2010年には総務大臣に任命され、約1年間総務大臣として仕事をしました。


その後、早稲田大学の教授になった片山さん、その片山さんが多く出演していたのがTBSで放送されていた時事放談です。時事放談では「ワイドショー政治を叱る」をテーマにトークが展開され、最近の政治経済などについて語ります。片山さんはこれまでに44回の出演を果たしており、他の政治家を差し押さえて出演回数の上位にランクインします。ただ他のワイドショーなのに片山さんがコメンテーターとして出ることはあまりなく、新聞などにコメントが出されるのは自治体に関することが目立ちます。政治評論家の中では地味であるものの、これまでの経歴を考えれば相当立派なものであるため、軽い番組にはなかなか使えないという側面があるのかもしれません。


鳥取県知事時代、片山さんは全国で初めてあることをしました。それは震災に遭った県民の受託に対して復旧助成を行ったのです。住宅復興補助金を導入したことで、再建に向けて補修や補強を行うなどの対策をとれるようになりました。もちろん、これだけでは不十分だったという後の研究結果があり、すべてが万全だったわけではありませんが、それでも公的支援の早期の導入に対して住民たちの高い信頼を集めることになります。結果的に鳥取県民からの支持率は相当高くなったため、共産党ですら対抗馬を出せない状況でした。改革派知事としてやれることはやる、その姿勢が多くの知事に浸透すれば、より良い日本を地方から育てられるかもしれません。

浅野史郎 政治評論家

f:id:hyouronka:20191210043448j:plain

 

政治評論家の中には自治体の長を務めた人も少なくありません。宮城県知事を3期務めた浅野史郎さんがその1人です。1948年2月8日生まれ、71歳の浅野史郎さんは岩手県大船渡市の出身です。生まれは岩手の大船渡、育ったのは宮城県仙台市の浅野さん、東京大学法学部を卒業後、当時の厚生省に入ります。障害福祉課長を務めるなど着実に出世をしていましたが、1993年、当時の宮城県汚職事件が発覚、当時の連立与党だった新生党日本新党などの推薦を受けて当選。構造改革を訴え、無党派を貫く知事として有名になります。


その後、宮城県知事時代の名声を受けて東北大学慶應義塾大学の教授に就任した他、テレビやラジオなどに政治評論家、コメンテーターの立場で出演し、政治のムダなどに鋭いコメントをしていきます。2007年には東京都知事選挙に立候補しますが、当時の石原慎太郎知事の根強い支持には歯が立たず落選。その後もテレビなどに出続けますが、浅野さんに悲劇が襲います。2005年の段階で白血病を引き起こすウイルスに感染していた浅野さん、2009年に入り、急性期に入り、予断を許さない状況に追い込まれます。骨髄バンクでの骨髄移植などを受け、懸命な治療を行うことに。それまで髪の毛が豊富にあった浅野さん、治療を経て頭髪が薄くなるなどの影響がありましたが、命だけはつなぐことができ、2010年には退院し、自宅で療養。その後回復し、改めて政治評論家としての仕事を行えるまでに快復すると、神奈川大学の教授として後身の指導にあたっています。


浅野さんのエピソードで有名なのは、浅野さんが宮城県知事時代にNHK週刊こどもニュースに出たときのこと、カラ出張を子供に質問され、大人が使うような説明をしても子供が理解できなかったため、ウソをついちゃったと答えて納得させたものがあります。この時の司会は池上彰さんでしたが、この時の浅野さんの対応を称えています。こうした分かりやすい説明、かみ砕いた表現はテレビでコメントをする際に発揮されています。


白血病を乗り越えるだけでも相当なエネルギーが使われる中、浅野さんは無事に復活し、政治評論の仕事を行っています。浅野さんは現在もワイドショーなどのコメンテーターで見る機会がありますが、まずは体の状態が万全であることを願わずにはいられず、それから教授としての仕事などを全うしてほしいと多くの人が願っています。

田勢康弘 政治評論家

f:id:hyouronka:20191210043353j:plain

 

猫が大好きな人は政治評論家に限らず多くいますが、その中で猫を自分の番組に出させて自由に歩かせることを提案し、実現させた方がいます。それが田勢康弘さんです。1944年10月8日生まれ、75歳の田勢康弘さんは満州の出身です。1944年満州で生まれた田勢さん、その後日本に戻り、青森県山形県で暮らし、その後上京します。早稲田大学政治経済学部を卒業すると、日本経済新聞社に入社し、政治部の記者やワシントン特派員、支局長を歴任、編集委員なども務めます。


田勢さんが政治評論家としての真骨頂を発揮したのは政局予想の小説を書いた時です。1993年に起きた政権交代に際し、羽田派が離党して自民党以外の連立政権が発足するという予想を小説の中で打ち立てます。結果的にこれが大当たりとなり、当時の著者名だった黒河小太郎とは誰か、話題を集めます。後に黒河小太郎は自分であったことを告白し、文庫版が発売される時には田勢さんの名前で出されています。2007年にあった参院選においても、票読みが完璧で、多くの政治評論家が与党に配慮した予想をする中、田勢さんは与党の惨敗を予想し的中させています。


田勢さんは多くの政治家との取材を行いましたが、その中で常に緊張した政治家として宮沢喜一さんを挙げています。笑顔で柔和なイメージがありながらも、実際は冷淡で愛想がなく、宮沢さんの人となりを知らない人からは恐れられていました。実際に長く付き合っていくと、最初に関係を拒み、長い時間をかけて数少ない人に心を許すという感じだったようです。田勢さんは2008年から週刊ニュース新書のメインコメンテーターに抜擢され、大人向けのニュース番組と銘打ち、8年間続きました。その中で印象的だったのは猫を歩かせるという演出。猫が大好きだった田勢さんの発案で当初は自宅の猫を使う予定でしたが、奥さんに反対されて断念。報道番組であるにもかかわらず猫を出演させるのは世界的に見ても異例でしたが、好評だった様子。初代の猫が亡くなった際にはアナウンサーが涙を流す場面も。2代目の猫を探す際には田勢さん自らお見合いを行い、見つけ出すなどの熱の入れようでした。


政治評論家としては地味な部類だった田勢さん、しかし票読みはいつの時代も合っており、その評論も決して的外れなものではありませんでした。今の政治にどのようなことを思っているのか、まだまだ現役の政治評論家としての見解を聞きたいところです。