三浦瑠璃 政治評論家
略歴[編集]
神奈川県茅ヶ崎市出身[5]。父親は心理学者の濱村良久。幼少期に神奈川県平塚市に移住。平塚市立金旭中学校卒業。1999年(平成11年)3月に神奈川県立湘南高等学校を卒業し、同年4月に東京大学理科一類に入学[4]。2001年(平成13年)4月に同大学農学部生物環境科学課程地域環境工学専修に進む[4]。2003年(平成15年)、同大の先輩・三浦清志と結婚した[8]。一児の母[9]。2004年(平成16年)1月、論文「『日本の国際貢献のあり方』を考える」により、自由民主党が主催した第1回「国際政治・外交論文コンテスト」の総裁賞を受賞[8][10]。同年3月に同大学を卒業[4]。同年4月、東京大学大学院公共政策学教育部(公共政策大学院)専門修士課程に入学し、国際政治学者の藤原帰一の下で学ぶ[11]。2006年(平成18年)3月、同課程を修了し、公共政策修士(専門職)を取得[4]。2010年(平成22年)10月、東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程を修了し、博士(法学)を取得。学位取得論文は、「シビリアンの戦争 : 文民主導の軍事介入に関する一考察」[12]。
2007年(平成19年)4月、日本学術振興会特別研究員(DC2、2009年(平成21年)3月まで)[4]。2010年(平成22年)、論文「長期的視野に立った成長戦略―ワーキングマザー倍増計画」により、東洋経済新報社が主催した第26回高橋亀吉記念賞の佳作を受賞[13][14]。2010年、三菱UFJリサーチ&コンサルティング主催懸賞論文コンテストの第3回「私ならこう変える! 『国と地方の新しいカタチ』」において「グローバル化の中の道州制」で優秀賞獲得(大賞は該当者なし)[15]。2011年(平成23年)1月、東京大学政策ビジョン研究センター安全保障研究ユニット特任研究員(2013年(平成25年)3月まで)[4]。2013年(平成25年)4月、日本学術振興会特別研究員(PD)、青山学院大学兼任講師(青山スタンダード科目)[4]。2014年(平成26年)から自らの政治的見解を綴るブログ「山猫日記」を開始。
2015年(平成27年)に「山猫日記」の内容を再編集した「日本に絶望している人のための政治入門」を文春新書から出版し、元日に「ニッポンのジレンマ」でメディアに初登場して以降「朝まで生テレビ!」に出演し、以降、ほぼ毎回出演。8月、共同通信の第三者機関「報道と読者」委員会の第8期委員に就任(第9期まで)[16]。
2016年(平成28年)3月から2019年(平成31年)2月まで、東京大学政策ビジョン研究センター講師[17]。12月、「BLOGOS AWARD 2016」銅賞受賞[18]。2017年(平成29年)2月、自由民主党副総裁の高村正彦と共著を出版。12月、第18回正論新風賞を受賞[19]。
人物[編集]
夫は東京大学の先輩で[8]、投資ファンド代表、元外務省職員。娘が1人いる[20]。
幼少期は児童文学から若草物語などの少女もの、円地文子や幸田文ら女流作家、源氏物語や蜻蛉日記など日本の古典文学を読み漁る。学生時代は集団行動に馴染めず、高校進学後も授業に出ずに鎌倉や江の島へ行くことが多かったという[21]。
東京大学教養学部理科I類ではクラス50人中女子は2人しかいなかったため、男子学生とは話も合わず試験プリントが回ってこないこともあり、自然とキャンパスから足が遠のいていったという。その後、地球環境問題を学ぶために農学部地域環境工学専修を専攻。しかし、想像していた勉強と違っていたため進路を考えるために留年。他学部の授業を受けているうちに船橋洋一ゼミで政治学に関心を持ち、文系に転身して公共政策学教育部専門職学位課程に1期生として入学。その頃に始まったイラク戦争で、アメリカの軍人たちが反対していたことに興味を持ち、博士論文でシビリアンコントロールの研究を始める[22][23]。
2015年元日の『ニッポンのジレンマ』パネリスト依頼を皮切りに、様々な討論番組へ出演している。議論について三浦は「日本に存在する『ハイ論破!』という文化は有害」「はい論破!という雰囲気が左右両方にあるのはわるいこと。論破なんかできるわけがない。自分の議論を示しつつ相手の議論の不備や死角を指摘できるだけ。昔は保守はそれがわかってて閉じこもりリベラルの方が教化を目指してたけど、最近両方憎しみで目が曇ってる感あり」「官僚が使う言葉を借りれば『議論するときは同期』という姿勢こそが正しい」と述べている[24]。
米国ジャーマン・マーシャル財団研究員(当時)のジョシュア・W・ウォーカーと共同で東日本大震災に関する論文を発表している[25][26][27][28]。
レギュラー番組の中で「日常生活では『S』だと思われがちだがプライベートでは『Mっ気』がある」と語っている[29]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%91%A0%E9%BA%97
実におきれいなのに政治評論家なんてかなり高感度はあるかと思います。
いろんな方が彼女のことを叩いてますが、どうなのでしょうか?
実際は違うような気がしますね。
今後の活動楽しみにしてます。
岩見隆夫 政治評論家
略歴[編集]
関東州(現中国)の大連で生まれ、山口県防府市で育つ。山口県立防府高等学校、京都大学法学部卒業後、1958年毎日新聞社入社。社会部記者、政治部記者、政治部副部長、秘書室長、論説委員、出版局次長兼サンデー毎日編集長、編集委員室長、東京本社編集局次長、編集局編集委員、編集局政治担当特別顧問を最後に、2007年3月31日で退社。
毎日新聞の編集局長時代には、夕刊紙上で「グリコ事件で取り調べ 江崎社長の知人ら4人」と一面から社会面まで誤報を掲載した経緯がある(毎日新聞のグリコ・森永事件に関する捏造事件)。後日辞任し「行き過ぎ紙面を自戒」と紙上に文面を掲載した。
政治評論家としても活動しており、毎日新聞やサンデー毎日に連載欄を持つ。政見は改憲容認など毎日新聞の社論よりは保守的なものが多い。1992年には連載企画「新編・戦後政治」やコラム「近聞遠見」の執筆で、政治報道に新生面を開いたことが評価されて、日本記者クラブ賞を受賞している[1]。
毎日新聞社退社後は、クルーズ客船「飛鳥II」による約3ヶ月間の世界一周旅行(2007年4月初旬放送のTBS『みのもんたの朝ズバッ!』にてクルーズ客船を特集した際、出発間近の同船に岩見が乗ることをみのもんたが口にした)を経て、2007年夏頃より毎日新聞客員編集委員として再始動。9月13日には春までレギュラー出演していたテレビ朝日『やじうまプラス』で久々に出演した。
2013年、自ら末期肝癌であることを公表。5月24日に緊急手術を受けたため、一切の仕事を取り止めて治療に専念するものの、新聞『近聞遠見』、サンデー毎日『サンデー時評』の両コラムは継続する意向を示していた[2]。
2014年1月18日、肺炎のため死去[3]。78歳没。
コラム「近聞遠見」[編集]
1989年9月から毎日新聞で政治コラム「近聞遠見」を週1回連載していた。2013年12月7日付け『政治家の伴侶としての「女」』が絶筆となる。
事実誤認[編集]
2009年5月30日に毎日新聞に掲載されたコラム「近聞遠見」において、事実誤認に基づき首相を批判したことが問題になった。
問題のコラムで岩見は、麻生太郎首相と鳩山由紀夫民主党代表との初の党首討論での麻生の発言の一部を取り上げ、「「殉じる」とは言ってない」との見出しで「麻生の思い込み」と非難していた[4]。しかし、鳩山は「小沢氏の下での幹事長だ。殉じるときは殉じる」と発言しており[5][6][7]、実際には岩見の思い込みであった。
2009年6月13日に同コラムの末尾に「お詫び」と題する訂正が出された[8]。「筆者の記憶、調査が不十分だったための間違いで、深くおわびし、訂正します」と説明している。ネット版では問題の回のコラムが削除された。
役職[編集]
- 日本エッセイスト・クラブ理事
- 特定非営利活動法人江戸城再建を目指す会顧問
- 日本インターネット新聞株式会社取締役[9]
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E8%A6%8B%E9%9A%86%E5%A4%AB
面白い方でしたね。テレビでよくお見かけせれていましたが、今現在はみることができなくなりました。岩見さんの用に物事をはっきりと語る方は少なかったので面白かったですが、2014年に無くなられて残念です。
田崎史郎 政治評論家
来歴[編集]
福井県坂井郡三国町(現:坂井市)生まれ[1]。福井県立藤島高等学校を卒業後、中央大学法学部法律学科へ入学する。大学2年時に三里塚闘争へ参加し、凶器準備集合罪で逮捕のうえ13日間留置される[2]。
1973年3月、同大学を卒業後、同年4月、時事通信社に入社。経済部を経て、1975年に浦和支局に異動を命じられたが、少数派の労働組合に所属していたことを理由にした左遷で不当労働行為であるとして会社を提訴。その後、3年3か月後に政治部へ異動することを条件に和解。
1979年に政治部に異動となり、大平正芳内閣総理大臣の番記者[3]になる。以後、新自由クラブ、外務省担当を経て、1982年4月人事にて、田中派を担当[4]。以来、ずっと平成研究会を中心にして政治記者として活動し、並行して、整理部にて、整理部長、編集局総務としてトータル8年勤務し、解説委員に異動。2006年から解説委員長となり、以後、民放キー局の報道、ワイドショー、バラエティ番組にて政局解説として出演する様になる[5]。
2010年6月30日付人事にて、定年後の再雇用にて引き続き勤務し[6]、再雇用契約が終了後に特別解説委員の肩書で再度、会社と契約し[7]。
2018年6月末付けにて、内規の68歳に達し、特別解説委員を退職[8]。以後、フリーの政治評論家として、メディアでの言論活動を継続している。2019年1月から駿河台大学客員教授。
人物[編集]
- 2013年、自民党の政党交付金から組織活動費名目で資金提供を受け、2013年から2015年にかけて安倍晋三らと懇談していた事や安倍本人と自民党に対し擁護や理解を示す発言が多いことが理由で、安倍と敵対してるメディアから、“田崎スシロー”(寿司郎)とも揶揄されている[9]
小沢一郎との関係[編集]
田中派の担当記者になって以来、小沢一郎とは毎晩のように呑む間柄だったが[10]、1992年1月以来、小沢から一方的に遠ざけられ、取材できない状態になったという[11]。1993年に成立した細川内閣で最大の実力者となった小沢について、マスメディアが伝える小沢像は虚像であり、自分の知っている小沢の実像を伝えたいとの思いから、田崎は『文藝春秋』1994年10月号に「小沢一郎との訣別」と題した記事を発表した[12]。
1982年の自由民主党総裁選挙の際に小沢が田中派支持下の中曽根康弘を評して「担ぐ御輿は軽くてパーがいい」と発言したことや、小沢が自由民主党幹事長時代に海部俊樹総理を評して「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と発言したことなど、小沢のこれまでの数々のオフレコ発言を明かして[13]話題になる[14][15][16]。小沢サイドからは何の反応もなかったが、日本新聞協会は時事通信に対してオフレコを破ったことの事情説明を求めた[17]。時事通信はオフレコを破った田崎に対して、2週間の出勤停止、その分の給与の減額、翌年の賞与の減額という処分を下した[18]。
田崎は、相手に取材できなくなるならオフレコ破りはしないほうがよいという立ち位置であった[19]。すでに小沢からは何の通告もなく一方的に無視されて事実上の取材拒否となっており、オフレコ破りをしても何の障害もない状態であったため、オフレコ破りをしたと主張している。田崎は、小沢から取材拒否されるようになった原因について、自身の諫言を小沢が嫌ったことや、小沢の政敵となった梶山静六と自身が親しくしていたことなどを推測している[20]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B4%8E%E5%8F%B2%E9%83%8E
小沢一郎さんとは、かなりの仲だとの事ですね。
毎晩、飲む間柄なのは良いかと思います。
森田 実 政治評論家
静岡県伊東市出身。伊東西小、伊東北中、相洋高校を経て東京大学工学部鉱山学科卒業。 尚、弟も東大出身であり、地元伊東市では名家として知られている。 在学中に日本共産党に入党し、香山健一、島成郎、生田浩二、青木昌彦らとともに全日本学生自治会総連合の指導部を形成した。破壊活動防止法反対闘争(1952年)、原水爆禁止運動(1955年)、砂川闘争(1957年)、安保闘争(1958年〜1960年)などに携わる[1]。その後、日本共産党幹部と殴り合いを演じて共産党を除名されると、1958年、多くの学生党員らと共に共産主義者同盟(ブント)を結成し、主に労対関係の任に当たっていた。その後、日本評論社出版部長、『経済セミナー』編集長を経て、1973年からフリーの政治評論家として活動。東日本国際大学客員教授も務め、2015年6月に中国山東省を訪中団団長として15名の団員で訪問、山東大学より「名誉教授」を贈られる。
2004年7月、著作本『公共事業必要論』の記念講演会を二階俊博が代表を務める自由民主党の派閥「新しい波」が主催し、「新しい波」から寄付も得た。アメリカ発の新自由主義に基づく構造改革路線をとった自由民主党を激しく批判しており、雇用・社会保障を重視した修正資本主義路線に戻すべきだと提言している[2]。小沢一郎政経研究会で講演したこともある[3]。
思想・主張[編集]
政治評論家として独立以来、ほぼ一貫して保守本流である自由民主党宏池会(旧宮沢派)を支持し、その「経済重視、平和外交」路線を支持してきたが、2003年前後の自由民主党や宏池会の分裂後は、自民党内でもそれまで親しくなかった亀井系を支持するなど方針転換するに至った。かつて、宮澤政権誕生前夜には、金丸信の暗躍を正面から批判する数少ない評論家として活躍し、当時、三塚派成立の際に中堅として尽力した小泉純一郎についても、「正直で信頼できる人間」「竹下派支配に立ち向かう信念ある政治家」「21世紀初頭の総理候補」と激賞している。宮澤支持や小泉への好意と、金丸・小沢一郎による「闇支配」批判の明確な姿勢は、当時の森田の著作(徳間書店『政変』など)でも明白である。
現在の森田のスタンスは、経済においては「修正資本主義」に近く、政治・外交においては「平和主義」「反米[要出典]・対アジア協調」「9条護憲」の立場を採る。日中友好論者でもあり、台湾独立・靖国神社公式参拝には反対している。政治評論家としては珍しく、時々の政治家・政党に対する支持・不支持を明確にしており、亀井静香や野中広務、綿貫民輔、鈴木宗男といった、小泉政権時の郵政民営化法案や対米依存政策における自民党内の「抵抗勢力」、河野洋平、加藤紘一、二階俊博、福田康夫ら親中派の支持者である。とりわけ、綿貫に対しては「日本一品格のある政治家」と最大限の賛辞を送っている。鈴木に対しても、かつては激しい批判を加えていたが、現在では評価に転じている。森田が最も評価していた政治家は、かつて小沢一郎の側近だった熊谷弘で、朝日ニュースターに出演した際には「真の改革者は熊谷さんだけ」と絶賛していた。
21世紀以降の政局では、郵政民営化に代表される新自由主義路線に反対の立場で、小泉政権への批判を展開していた。公共事業は地方活性化のためには必要不可欠な「善」であると主張する。談合についても、日本の古き良き慣習であると肯定し、談合批判は米国の陰謀であると主張する。その小泉の後継者である安倍晋三に対する批判はさらにヒートアップしたもので、北朝鮮が2006年7月5日、ミサイル発射実験を実施した際には、日朝平壌宣言に明確に違反した北朝鮮への批判は全くと言っていいほど行わず、ひたすら安倍(当時は官房長官)への批判に終始した。また、北朝鮮による日本人拉致問題についても、「対米従属助長のための陰謀」と断言している。そのような小泉・安倍政権批判への反作用として、以前は厳しく批判していた小沢一郎が民主党代表に就任すると、「『小沢一郎』入門」なる書物を書き下ろして大絶賛した。しかし、その小沢に対してもISAF参加構想を発表した折には平和主義からの逸脱であるとして厳しく糾弾し、大連立騒動やそれを巡ると民主党代表辞任のゴタゴタを起こすに及んで激しく批判(ただし背景としてウェブサイト上でアメリカ共和党のエージェントによる小沢への圧力を指摘)。[要出典] 以後は小沢民主党批判に転じ、2008年12月に出版された「政治大恐慌 悪夢の政権交代」(ビジネス社)では、小沢民主党のままの政権交代や大連立に警鐘を鳴らして明確に「脱小沢」を説いている。
民主党による政権交代が実現した後も小沢に対する批判は続けており、2010年には陸山会の政治資金規正法違反事件を巡る疑惑に対して詳細な説明をしようとしない小沢に「やり方があまりにも姑息で、汚らしい」「独裁者が怖くて民主党議員も小沢を批判できない」などと断じている[4]。その一方で、2011年9月26日に出された石川知裕ら3人への有罪判決については痛烈に批判している。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%AE%9F
かなり年配の方ですが、いろんな考えを持っている方かと思います。
いい感じの方かと思います。
細川隆一郎 政治評論家
概説[編集]
福岡県小倉市(現:北九州市)生まれ[2]、熊本県出身。東京府立四中(現:東京都立戸山高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。学位は政治学士(早稲田大学)。
憲法改正論者であり、「マッカーサーの押しつけ憲法だ。自主憲法を持たなければ独立国とはいえぬ。」(『毎日新聞』2009年10月7日朝刊、26面より引用[3])が信条であった。 内外問題研究会」を主宰していた。
毒舌の話術を生かし、ワイドショーのコメンテーターとして活躍し、タレントとして政治と関連の薄い分野でも活躍した。1996年6月11日からはタレントとして吉本興業に所属したこともあった[4](1999年とするメディア[2]もあったが、誤り)。
来歴[編集]
- 1919年 - 1月1日:誕生。
- 1942年 - 早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
- 1942年9月 - 大阪毎日新聞社東京本社(『東京日日新聞』発行元。のちの毎日新聞社東京本社)に入社[3]。
- 同年10月:陸軍東部通信本部に配属されて硫黄島へ出征する。
- 1945年9月1日 - 新聞記者として復職。毎日新聞東京本社経済部、政治部記者として勤務。
- 1963年 - 神戸支局長着任。
- 1966年 - 東京本社政治部長就任。政界汚職粛正のため、「日本政治への提言」を半年にわたり連載。
- 1967年 - 前年の黒い霧事件の時に「日本政治への提言」を連載していたことで「日本新聞協会賞」を受賞[3]。
- 1968年 - 東京本社編集局次長就任。
- 1970年 - 中部本社編集局次長就任。
- 1973年 - 東京本社編集顧問。年末、同社定年退職、以後、政治評論家となる。
- 1980年 - 6月12日早朝に大平正芳首相の死去を、逸早く文化放送の自らの番組内で伝えたことにより「文化放送社長賞」を受賞。
- 1986年 - 『岸信介伝』、『政争・ニューリーダー論』の著書で第6回日本文芸大賞特別賞を受賞した。父の日にちなんで毎年日本で最も理想的お父さんを選ぶイエローリボン(ベストファーザー)賞を受賞。
- 1988年 - 日本きものコンサルタント協会より和装文化賞受賞。
- 2003年 - 脳梗塞を発症し、発見が遅れたため左半身麻痺が残り、元来からの持病であった黄斑変性が進行して失明した。頑固な性格のため、実際の症状で要介護認定が最高位にも関わらず、介護認定の面談で実際より重度でない事を告げ、かつ仕事を続ける事を頑なに守ったため、娘の細川珠生が、著作の口述筆記や一般紙の読み聞かせ等のサポートをしていた[5]。
- 2009年8月25日 - 老衰のため死去。90歳没。告別式は2009年9月1日に東京都大田区の池上本門寺で営まれ、親交が深かった鳩山由紀夫民主党代表(後の首相)が弔辞を読み上げた。また同年9月28日には、お別れの会が東京・内幸町の日本プレスセンターで行われ、鳩山首相、中曽根康弘元首相も出席した。最後の仕事は死去した三日前に放送されたラジオ番組であり文字通り生涯現役を貫いた。
エピソード[編集]
- 趣味は小唄、日本舞踊、空手、ゴルフ、スキー、水泳、アイスホッケー、野球等スポーツ全般。
- 豪放磊落を売っている一方で、対談で相手が強気に出られると逆に宥めの側に回ったりするところもあった。
- 早稲田大学時代は空手部の主将を務めていた[1]。
- 72歳くらいのときに霊能士に「100歳まで政治評論をしている」といわれた。
- 政治すごろくゲーム「政界立志伝」の監修をしたことがある。
- 1980年代〜1990年代にはテレビのバラエティ、クイズ番組に多数出演していた。
- かなりの数の評論家が首相を辞任して数年後から高く評価しだしていた田中角栄について自著「総理の通信簿。」ではそれまで以上に政界に金権政治をもたらしたとして唯一総合評価で1を付けている[6]。
- 反共組織として擁護していたが「皇太子に祝福(合同結婚式)を受けさせる」と統一教会のトップの文鮮明に言われたことについて「まったく話になりません。・・皇室を侮辱するものです。・・失礼極まりない、余計なお世話もいいところです。」と文の不敬に激怒している[7]。
家系[編集]
戦国大名・細川忠興と細川ガラシャ(明智光秀の娘)の長男・忠隆(廃嫡)の子孫で、旧熊本藩一門家臣・細川内膳家(細川男爵家)の分家・牧崎細川家の一族である。幕末の内膳家当主忠顕の長男・隆虎は、明治期に分家して通称「牧崎細川家」と呼ばれた。隆一郎の父・隆志は隆虎の次男。政治評論家として有名な隆元は三男(隆一郎の叔父に当たる)。ちなみに内膳本家の家督は、忠顕の兄忠壽の長男・忠穀が継ぎ男爵に授爵されている。子供に政治ジャーナリストの細川珠生、テレビ朝日報道局デスクの細川隆三がいる[1]。
レギュラー番組[編集]
- RFラジオ日本『細川隆一郎のだまっちゃおれん!』
- RFラジオ日本『珠生・隆一郎のモーニングトーク』(1995年 - 2009年) ※娘の珠生と出演。
- 新日本放送(現:MBSラジオ)『ヤンマー日曜放談』(パーソナリティ)
- フジテレビ『夕やけニャンニャン』(水曜日レギュラー)
- 日本テレビ『ズームイン!!朝!』(「細川隆一郎の健康一番!」コーナー)
- 日本テレビ『ルックルックこんにちは』(コメンテーター)
- 日本テレビ『なぜなぜダイヤル!?』(パネラーとして政治関連の疑問を担当)
- テレビ朝日『なうNOWスタジオ』(コメンテーター)
- TBS『新伍のお待ちどおさま』(コメンテーター)
- ABCテレビ『桂三枝のにゅーすコロンブス』(コメンテーター)
- よみうりテレビ『2時のワイドショー』(コメンテーター)
- テレビ東京『細川隆一郎の天下御免!』(司会)
- テレビ朝日『ビートたけしのTVタックル』[2](初期のレギュラー)
著書[編集]
- 『背骨を伸ばして』(文化放送出版)1980年
- 『細川隆一郎の健康一番』(日本テレビ出版)1981年
- 『細川隆一郎の健康一番②』(日本テレビ出版)1982年
- 『鈴木さん総理をすぐおやめなさい』(IN通信社)1982年
- 『図太く生きる男の本』(文化創作出版)1982年
- 『吉田茂の人間秘話』(文化創作出版)1983年
- 日本宰相列伝 20巻『岸 信介伝』(時事通信社)1986年1月 ISBN 4-7887-8570-6
- 『政争 ニューリーダー論』(山手書房)1985年
- 『燃える政治の舞台裏・細川隆一郎直撃対談集』(全貌社)1983年
- 『細川隆一郎・中谷武世直言集・政治改革のすすめ』(山手書房)1983年
- 『細川隆一郎のかみなり人生指南』(講談社)1986年
- 『頭のいい人悪い人がわかる本』(青春出版社)1986年
- 『細川隆一郎おんなを語り政治を叱る』(IN通信社)1988年
- 『まかせてみては?土井連合政権に』(スコラ) 1989年10月 ISBN 4-7962-0005-3
- 『オトコの復権』(東急エージェンシー出版) 1990年2月 ISBN 4-924664-75-8
- 『バチあたり日本はどこへゆく』(共著)(東急エージェンシー出版)1992年
- 『細川隆一郎の頑固一徹のススメ』(東急エージェンシー出版)1993年
- 『細川隆一郎vs田中美穂 病める日本を癒す』(共著)(IN通信社)1996年
- 『笑って笑って大往生』(実業の日本社) 1996年11月 ISBN 4-408-13288-8
- 『総理の通信簿 歴代宰相の器を問う』(テラ。コーポレーション) 1998年4月 ISBN 4-925001-38-8
- 『怒りを忘れた日本人 このままでは日本はダメになる』(文化創作出版) 2001年7月 ISBN 4-89387-194-3[1]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%9A%86%E4%B8%80%E9%83%8E
1月1日生まれなんてかなり、めでたい日ですね。
羨ましい日でもあります。
また、細川さん結構な頻度でテレビ等も出演されておりますので、良いかと思います。
政治評論家としても成果をしっかりと上げてありますので、実績は良いかと思います。
あえば直道 政治評論家 共産党顧問 一般社団法人JCU議長
経歴
- 1967年 1月5日 - 神奈川県横浜市で出生。実家は弁護士。
- 1973年 4月 - 慶應義塾幼稚舎(小学校)に入学。以後慶應の付属校を経て慶應義塾大学へ進学。
- 1990年 3月 - 慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。
- 2010年 - 単身渡米。
- 2011年 - 全米税制改革協議会(ATR)が主催する「水曜会」に継続的に参加。
- 2012年1月 - 共和党全米委員会・顧問(アジア担当)にアジア人として初めて就任[2]。
- 2016年 - アメリカ大統領選挙について各メディアにてコメントしている。
-
詳細は「#メディア出演・掲載」を参照
- 2017年 - 共和党全米委員会・顧問を退任し[7]、JCU議長の職務をメインに活動する。
共和党との関係
- 2014年11月11日産経新聞の広告記事で、共和党全国委員会共同議長シャロン・ディとの対談が掲載された[12]。
- 2015年には、共和党の支持母体である「全米保守連合」(ACU)の日本側のパートナーとなる一般社団法人JCUを設立。
- また、ドナルド・トランプとは、トランプが2016年アメリカ合衆国大統領共和党予備選挙に出馬する前からの知り合いで、[要出典]メディアで泡沫候補扱いされていた頃から支持している。
- 2016年3月5日、ワシントンD.C.にて開催中の共和党系政治大会 CPAC 2016 メイン・ホールにおいて『新しい日米同盟のあり方』と題して演説を行った[13][14]。
- 2016年6月から、共和党からの大統領選の情報を日本のメディアに出演してアメリカの現状を伝える。
- 2016年12月、トランプの大統領選の当選後は、新政権移行チームの日本窓口の1つとして活動している[15][16][17]。
- 2017年1月、ドナルド・トランプのアメリカ合衆国大統領就任に合わせ、共和党全米委員会・顧問の役を退任したが、新政権との連携活動は継続している。
- 2017年2月25日、CPAC 2017 の3日目メイン・ホールにおいて演説を行った[18]。
- 2018年2月23日にマイク・ペンスアメリカ合衆国副大統領と、24日にはドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領と会談を行ったと自分のブログで主張し[19]、同日3年連続のCPAC 2018 の3日目メイン・ホールにおいて演説を行った[20][21]。
役職に対して
- 2016年11月5日、Web News『BuzzFeed』が、アメリカ共和党顧問の肩書きに詐称があるのではないかと報じた。BuzzFeedの取材によると、共和党全国委員会は「あえば氏は共和党全米委員会(RNC)で何の役職にも就いていません」と回答があったとされ(回答者不明)、一方、共和党の広報戦略を担当しているボブ・スパークスは、「あえば氏は、ディ共同議長の無報酬アドバイザーです」と回答している。あえば本人は「2011年の12月に正式にRNCの法務室の認可が下りた。RNCの法務室か、共同議長秘書に問い合わせれば明確になる」と反論している[22]。
著作
単独著書
- 『最強国家 ― 日本の決断』文芸社、2011年1月発行、ISBN 978-4286097305
- 『トランプ革命』双葉社、2016年3月23日発行、ISBN 978-4575311181
共著
- 『国難に備えよ―日本の安全保障を問う!』矢内筆勝・黒川白雲 共著、2010年5月27日発刊、ISBN 978-4863950429
書籍監修
- 『クリントン・キャッシュ』著:ピーター・シュヴァイツァー、監修:あえば直道、発行:LUFTメディアコミュニケーション、2016年2月10日発行、ISBN 978-4906784417
- 『大統領の風水』著:小林照弘、監修:あえば直道、発行:音羽出版、2017年1月、ISBN 978-4901007634
- 『トランプのアメリカ アメリカ―その「偉大なる復活」の真相』著:ニュート・ギングリッチ、監修:あえば直道、発行:産経新聞出版、2018年11月28日、ISBN 978-4819113526
メディア出演・掲載
- 1994年9月10日公開 - 映画『ノストラダムス戦慄の啓示』1994年、劇場公開映画:東映(生まれ変わりのドーム・息子役)出演
- 2012年4月 アメリカのオピニオン誌”The Atlantic”『月刊誌「アトランティック」5月1日号』インタビュー掲載[24]
- 2012年11月2日発売『夕刊フジ』11月3日号「激戦 11・6米国大統領選挙の舞台裏」[25]掲載
- 2013年6月25日発売『月刊「WiLL」2013年8月号』アメリカ現地レポート「中韓ロビイ活動にこう対抗せよ」[26]掲載
- 2013年12月20日発売『月刊「WiLL」2014年2月号』現地レポート「中国のアフリカ侵略を食い止めろ」[27]掲載
- 2014年3月28日発売『夕刊フジ』3月29日号「オバマケアの代替案もつ“有力候補”ベン・カーソン氏に注目 饗庭直道氏に聞く」掲載
- 2014年11月25日発売『月刊「WiLL」2015年1月号』「反日運動の黒幕『抗日連合会』に極秘潜入!」[28][29]掲載
- 2014年11月11日『産経新聞』米国共和党シャロン・デイ氏との対談「共和党勝利 日米新時代に向けて」[30]掲載
- 2015年4月9日放送開始 - テレビ番組『ググって○○聞いてみた!?~ニュースの裏側調査会』2015年(BS12、TOKYO MX 2局放送)[31]レギュラー出演[32]、9月26日まで
- 2016年3月28日発売『週刊大衆2016年4月11日号』「トランプ大統領誕生で日本はどうなる!?~米国共和党全米委員会アジア顧問が予見」掲載[34][35]。
- 2016年4月11日発売『週刊ポスト2016年4月22日号』「トランプと角栄の共通点に人の心を動かすスピーチ術」[36]掲載。
- 2016年5月29日放送 - フジテレビ系列『新報道2001』出演「ドナルド・トランプ自身が『クリントン・キャッシュ』を取り上げている」[37]
- 2016年7月4日発売『週刊大衆2016年7月18日号』「「トランプが『トランプ革命』を持って勝利宣言!?」掲載[38]
- 2016年7月9日放送 - TOKYO MXテレビほか『淳と隆の週刊リテラシー』[39][40]出演
- 2016年7月21日放送 - フジテレビ系列『ユアタイム〜あなたの時間〜』[41][42]出演
- 2016年10月2日放送 - テレビ朝日系列『坂上・美輪のニュースにダマされるな』出演[43][44][45]
- 2016年10月31日発売『週刊大衆』11月14日号「現地レポート、窮地のトランプ候補 大統領への秘策」掲載[46][47]。
- 2016年11月4日発売 - アメリカの政治専門紙『The Hill(ザ・ヒル)』「トランプ政権は『ならず者国家』と対峙する日本の力強い同盟国となりうる」掲載[48][49]。
- 2016年11月11日放送 - TBSテレビ系列『白熱ライブビビット』「トランプ大統領の素顔について」出演[50][51][52][53][54][55]
- 2016年11月18日発売 - アメリカの政治専門紙『The Hill(ザ・ヒル)』「アジアのパワー・バランスの舵取りを決める、トランプ氏による米日会談」掲載[56][57]。
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%88%E3%81%B0%E7%9B%B4%E9%81%93
かなりの経歴をお持ちで、コメントも面白くなおかつ分かりやすいですね。
アメリカとの国際関係の架け橋になるのでしょうか。
今後も結果も楽しみですね。
伊藤惇夫 政治評論家
人物[編集]
学習院大学法学部卒業後、出版社へ就職した後、1973年、時の総理・総裁田中角栄に誘われ自由民主党本部事務局に勤務。自民党では広報を担当し、1989年からは自民党政治改革事務局主査補として政治改革大綱を取りまとめる。その後、自民党を退職し、1994年末から新進党総務局、1996年12月から太陽党、1998年1月に民政党、4月から民主党の事務局に勤務。太陽党以後は、いずれも事務局長を務めた。
新党の結成に次々と立ち会ったことから「新党請負人」の異名を持つ。2001年12月に民主党を退職し、政治アナリストとして独立。執筆業の他、ニュース番組やワイドショーなどでコメンテーターとして活動。現在、学習院大学・明治学院大学・日本大学法学部並びに大東文化大学講師を務める。
著書[編集]
- 『政党崩壊』
- 『永田町権力者たちの情報戦争』
- 『永田町「悪魔の辞典」』
- 『政治の数字』
- 『永田町の回転ずしはなぜ二度回らないのか』
- 『民主党 ~野望と野合のメカニズム~』新潮新書290 ISBN 978-4-10-610290-5
- 『国家漂流 -そしてリーダーは消えた-』中央公論社(2012年10月10日発行)
その他
出演番組[編集]
- くにまるワイド ごぜんさま〜(文化放送・木曜出演)
- くにまるジャパン(文化放送・木曜出演)
- くにまるジャパン 極(文化放送・木曜・出演)
- ワイド!スクランブル(テレビ朝日、不定期)
- FNNスーパーニュース(フジテレビ、不定期)
- スーパーモーニング(テレビ朝日、不定期)
- ひるおび!(TBSテレビ、不定期)
- FNN総選挙2012 ニッポンの決意 JAPAN'S DECISION(2012年12月16日、フジテレビ)コメンテーター
- BSフジLIVE プライムニュース (BSフジ、不定期)- 2015年2月9日
- 教えて!ニュースライブ 正義のミカタ(朝日放送、不定期)
- おはようコールABC(朝日放送2010年3月29日-、月曜日)
- たかじんNOマネーBLACK(テレビ大阪、不定期)- 2015年3月14日
- 情報プレゼンター とくダネ!(フジテレビ、不定期)
引用元
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%83%87%E5%A4%AB
結構テレビは出演していて、影響力あるかと思いますね。