田崎史郎 政治評論家

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来歴[編集]

福井県坂井郡三国町(現:坂井市)生まれ[1]福井県立藤島高等学校を卒業後、中央大学法学部法律学科へ入学する。大学2年時に三里塚闘争へ参加し、凶器準備集合罪逮捕のうえ13日間留置される[2]

1973年3月、同大学を卒業後、同年4月、時事通信社に入社。経済部を経て、1975年浦和支局に異動を命じられたが、少数派の労働組合に所属していたことを理由にした左遷で不当労働行為であるとして会社を提訴。その後、3年3か月後に政治部へ異動することを条件に和解

1979年に政治部に異動となり、大平正芳内閣総理大臣番記者[3]になる。以後、新自由クラブ外務省担当を経て、1982年4月人事にて、田中派を担当[4]。以来、ずっと平成研究会を中心にして政治記者として活動し、並行して、整理部にて、整理部長、編集局総務としてトータル8年勤務し、解説委員に異動。2006年から解説委員長となり、以後、民放キー局の報道、ワイドショー、バラエティ番組にて政局解説として出演する様になる[5]

2010年6月30日付人事にて、定年後の再雇用にて引き続き勤務し[6]、再雇用契約が終了後に特別解説委員の肩書で再度、会社と契約し[7]

2018年6月末付けにて、内規の68歳に達し、特別解説委員を退職[8]。以後、フリーの政治評論家として、メディアでの言論活動を継続している。2019年1月から駿河台大学客員教授

人物[編集]

  • 2013年、自民党政党交付金から組織活動費名目で資金提供を受け、2013年から2015年にかけて安倍晋三らと懇談していた事や安倍本人と自民党に対し擁護や理解を示す発言が多いことが理由で、安倍と敵対してるメディアから、“田崎スシロー”(寿司郎)とも揶揄されている[9]

小沢一郎との関係[編集]

田中派の担当記者になって以来、小沢一郎とは毎晩のように呑む間柄だったが[10]1992年1月以来、小沢から一方的に遠ざけられ、取材できない状態になったという[11]1993年に成立した細川内閣で最大の実力者となった小沢について、マスメディアが伝える小沢像は虚像であり、自分の知っている小沢の実像を伝えたいとの思いから、田崎は『文藝春秋1994年10月号に「小沢一郎との訣別」と題した記事を発表した[12]

1982年の自由民主党総裁選挙の際に小沢が田中派支持下の中曽根康弘を評して「担ぐ御輿は軽くてパーがいい」と発言したことや、小沢が自由民主党幹事長時代に海部俊樹総理を評して「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と発言したことなど、小沢のこれまでの数々のオフレコ発言を明かして[13]話題になる[14][15][16]。小沢サイドからは何の反応もなかったが、日本新聞協会時事通信に対してオフレコを破ったことの事情説明を求めた[17]時事通信はオフレコを破った田崎に対して、2週間の出勤停止、その分の給与の減額、翌年の賞与の減額という処分を下した[18]

田崎は、相手に取材できなくなるならオフレコ破りはしないほうがよいという立ち位置であった[19]。すでに小沢からは何の通告もなく一方的に無視されて事実上の取材拒否となっており、オフレコ破りをしても何の障害もない状態であったため、オフレコ破りをしたと主張している。田崎は、小沢から取材拒否されるようになった原因について、自身の諫言を小沢が嫌ったことや、小沢の政敵となった梶山静六と自身が親しくしていたことなどを推測している[20]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B4%8E%E5%8F%B2%E9%83%8E

小沢一郎さんとは、かなりの仲だとの事ですね。

毎晩、飲む間柄なのは良いかと思います。