麻生良方 政治評論家

 

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来歴・人物[編集]

戦前の無産政党の指導者麻生久の長男として生まれた。少年時代は詩人に憧れ、1943年昭和18年)に詩集『青薔薇』を自費出版して近所の書店に置いてもらったという経験がある。

旧制開成中学(現開成高等学校)を卒業し、1945年(昭和20年)早稲田大学文学部を中退後、日本社会党本部に入り、1950年(昭和25年)に浅沼稲次郎の秘書となる。1959年第5回参院選では東京都選挙区から社会党公認で立候補するが落選。1960年昭和35年)に民主社会党の結成に参加。同年の第29回衆議院議員総選挙では、西村栄一によって浅沼の東京1区刺客として送り込まれたが、たまたま浅沼が殺された(浅沼稲次郎暗殺事件)ことも相まって、社会党は浅沼の妻享子を身代わり立候補させ同情票が集まり、麻生は「裏切り者」と批判され落選した。しかし1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙に初当選し、以後3回連続当選を果たす。党副書記長などを歴任。

1965年(昭和40年)、国会内の芸術議員連盟を基盤として、通商産業省認可団体社団法人国際芸術見本市協会を設立、初代理事長に就任、翌1966年(昭和41年)3月には協会最初の事業として第1回ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)をニューヨークにおいて開催した。

1972年(昭和47年)の落選を機に離党し、政治評論家に転進、マスメディアで活動する。1976年(昭和51年)には無所属で東京1区から出馬して見事にトップ当選を果たし宇都宮徳馬鳩山邦夫ら都内の他の選挙区選出の代議士と「無党派クラブ」、1979年(昭和54年)の東京都知事選では代議士辞職をして無所属で立候補し鈴木俊一太田薫と争うも落選。同年秋の第35回衆議院議員総選挙にも落選して返り咲きを果たせず、政治家廃業宣言を行って麻生情報文化研究所を設立、所長となる。

1995年(平成7年)2月21日死去。享年71。

逸話[編集]

三島由紀夫の親友の一人で、三島の小説『贋ドン・ファン記』のモデルとなった[1]1967年には三島から「やらないのは政治だけだが、どうしてもこれをやってみたい」と相談を受けたことがある[2]

1968年創刊の文芸雑誌ポリタイア」の同人であり、世耕政隆とは党派の別を超えてともにスポンサーとなっていた。

主要著書[編集]

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E8%89%AF%E6%96%B9

 

もうすでに亡くなっている方ですが、かなり良いコメントを残しておりますので斬新な考えでコメントがあります。

今後の政治評論家が気になりますね。

本当にどうなるのでしょうか?

今後の日本は。。。

有馬晴海 政治評論家

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何かと政治のことでコメントを求められる政治評論家、その中でも様々な媒体でコメントを求められているのが有馬晴海さんです。政治評論家になってからは比較的長く、どちらかといえば与党寄りではありながらもバランスを取りながら評論をしていく姿に共感の姿勢を持つ人が多いです。

 

1958年4月2日生まれ、61歳の有馬晴海さんは鹿児島県川辺郡坊津町出身です。立教大学経済学部を卒業するとリクルートに入社。リクルートでは優秀な若手社員として評価されていましたが、1985年にそのリクルートを退職します。次に選んだのが国会議員の秘書でした。当時の国会は中曽根内閣が強さを見せていたものの、それ以降の内閣が消費税導入などの懸案事項に挑んだために、参院選で波乱が起きるなど、後に起こる政権交代の予兆が見られました。有馬さんはまさにその政権交代が起こる過程を国会議員秘書として感じ取ることになります。

1996年には国会議員秘書を辞めて政治評論家に転身。その直前には議員秘書としての裏話を本にするなど活動しており、これ以降は様々な媒体での活躍が目立ちます。政治評論家の中には特定の政党の議員だけと仲がいい人がいますが、有馬さんは自民党だけでなく、公明党立憲民主党共産党など党派に関係なくインタビューを行い、議員の資質を目の前で見ています。そのため、政治評論はバランスがとれており、願望のようなものがあまりない比較的中立的なものが多いです。

有馬さんの功績としては麻垣康三というフレーズを生み出したことです。ポスト小泉は誰になるのかと言われていた2005年春すぎ、有馬さんは分かりやすくポスト小泉にふさわしい政治家をピックアップしたところ、麻生太郎の朝、谷垣禎一の垣、福田康夫の康、安倍晋三の三を組み合わせ発案。これをサンデー毎日が取り上げたことで、この言葉が様々な媒体で用いられました。ポスト小泉レースでは、この中の3人は首相を経験し、残りの谷垣さんは自民党総裁を務めるなど、その人選がいかに順当なものだったかが分かります。


現在、有馬さんは関西を中心にテレビの仕事を入れており、たまにキー局のコメンテーターで出ることがあります。選挙が近付けば議席の予測をする他、講演活動で地方に呼ばれることが多く、有馬さんがこれまでに経験してきたこと、現在の国会の状況など、なかなかテレビでは聞くことができないディープな永田町の裏話が聞けるので講演依頼がかなり集まっています。

三宅久之 政治評論家

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来歴[編集]

生い立ち[編集]

1930年昭和5年)、現在の東京都杉並区阿佐谷南一丁目、杉並区役所のすぐ隣の家で生まれた[1]。父は日立製作所技術者[1]。6歳のときに父が北九州工場に総務課長として赴任して戸畑市(現北九州市戸畑区)に引っ越して社宅暮らしになった[1]

学生時代[編集]

太平洋戦争大東亜戦争)が始まった翌年東京府立十九中(現:都立国立高校)に入学[1]ゲートル巻いて国民服のような制服を着て通った[1]。三年生から昭島に通い、九七式艦上攻撃機などの海軍の飛行機をつくる会社で組み立て作業をした[1]。 

1949年(昭和24年)に早稲田大学第一文学部独文科に入学[2]

記者時代[編集]

大学卒業後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社した。政治部記者から始まり、吉田茂番記者などを経て、政治部副部長、静岡支局長、特別報道部長を歴任する。1976年(昭和51年)に毎日新聞社を退社した後、フリーランス政治評論家となる[要出典]

政治評論家、コメンテーターとして[編集]

1978年(昭和53年)10月から~1985年(昭和60年)3月まで、テレビ朝日ANNニュースレーダー』の木曜日から土曜日まで(当初は金曜日と土曜日)のキャスターを務める。その後、同局の『やじうまワイド』や『新・アフタヌーンショー』などにコメンテーターとして出演するようになった[要出典]

昭和から平成になってからはテレビ朝日ビートたけしのTVタックル』に出演するようになり、三宅の知名度が向上した。2000年代からは読売テレビたかじんのそこまで言って委員会』などの討論系バラエティ番組にレギュラー出演していた[要出典]

引退[編集]

2012年平成24年)、評論家活動からの引退を表明した[3]たかじんのそこまで言って委員会』については、やしきたかじんが復帰するまでという条件で延期する形式で引き続き出演していたが、同年6月から休養に入り、代わりに自身が開設したアメーバブログの『三宅久之の小言幸兵衛』で評論する事として、続いて三宅個人の公式Facebookフェイスブック)も開設した。番組のレギュラーについては津川雅彦を後継者に指名した。糖尿病の影響で自分は決して長寿にならないと公言し[要出典]、80歳過ぎから心肺機能が低下して車椅子と携帯酸素の使用が増えていた[3]。同年の2012年自由民主党総裁選挙では安倍晋三を支持する応援団となった[4]。その際に、三宅はすぎやまこういち金美齢らとともに、安倍の事務所を訪れ、「内外の脅威にさらされるわが国の国家的危機を乗り越えるには安倍総理の再登板しかない」との声明文を手渡している[4]。最後に面会した友人はベナン共和国の駐日大使ゾマホン・ルフィンであった[5]

死去[編集]

同年11月15日朝、東京都内の自宅で倒れ病院に搬送されたが同日午前8時46分に死去。82歳没[6]。死去の5日前には、病院を退院し、快方に向かっていることを伺わせていた上[7]、死去した後も三宅自身のブログ「小言幸兵衛」のトップページには「三宅の入院で、多くの方々からお見舞いと激励のコメントをいただき、ありがとうございました。おかげさまで退院し自宅で療養中です。ブログとフェイスブックは間もなく再開いたしますので、もうしばらくお待ち下さい。」とある等、三宅の死はあまりにも急であったために、関係者を中心にかなりの動揺が走った[7][6][8]。また、自身が最高顧問を務めていた『たかじんのそこまで言って委員会』のホームページなどでも、追悼のコメントが出されている[9]。同年12月にインターコンチネンタルホテル東京で「三宅久之お別れの会」が開かれた。 2012年平成24年)12月(正式には2013年(平成25年)1月)から三宅の三男・三宅眞(昭和39年生まれ、現・狛江市議会議員)がブログの「愛妻・納税・墓参り 家族から見た三宅久之回想録」を開設した。[10]

人物[編集]

座右の銘は「愛妻・納税参り」。愛妻家であり、夫婦旅行のため番組を休むこともあった。平成期に渡部昇一などと1930年昭和5年生まれ)の昭和で最初の午年生まれの著名人の同級生会の昭和初午会を組織した[11][12]昭和一桁世代の三宅より1つ世代が上の大正世代の戦死した若い日本兵を尊敬している事から靖国神社によく参拝していた。2006年(平成18年)には金婚式を迎えた[要出典]

読売新聞グループ本社代表取締役会長の渡邉恒雄とは新聞記者時代からの友人だった[13]

何度か選挙出馬を持ちかけられたこともあったが、総て辞退している。出馬辞退については、晩年「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」と語っている。大臣の秘書官になることを誘われた時も、「子分になると、あなたに直言できなくなる」という理由から断っている[14]

威厳ある天皇像を望み、天皇が被災地で膝行したり、天皇が手を出す前に握手を求める者に天皇が応じることに否定的であり、そんな手は撥ね退けるべきと主張している[15]。また、女性宮家の是非については、『たかじんのそこまで言って委員会のそこまで熱くなって委員会』[16][17] や自身のFacebook等で一応賛成だが、女系天皇を認めることに対しては疑問を呈し、「伝統を失えば天皇制ではなくなり、男系を維持するべき」と云う考えを主張している[18]

ほかの政治評論家と同様、100万円の内閣官房報償費(官房機密費)の提供を受けていたことが写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)の2000年(平成12年)5月31日号「極秘メモ流出!内閣官房機密費をもらった政治評論家の名前」で紹介されている。ただし本人は、まったくの誤報だと主張して、早稲田大学の学生時代からの知り合いの藤波孝生衆議院議員官房長官だったときに、「講演を2つ頼まれているが、官房長官は東京を離れるわけにはいかないので、代わりに肩代わりしてくれないか」と代役を頼まれ講演に行ったら、後日、藤波官房長官の事務所から議員秘書が講演料を届けにきて、代役で受けた講演の対価として講演料を受領しただけの話で、官房機密費とは知らなかったと否定している(「たかじんのそこまで言って委員会」2010年5月16日放送より)。この説明に対して、同番組にも出演していたジャーナリストの上杉隆週刊ポスト誌上で行った取材に対して「(代理講演を)引き受けることにしたら秘書が100万円を持ってきた。藤波のポケットマネーだと思って受け取りました。領収証も書いていない」と答えた三宅の発言を紹介して、内閣官房からの領収書のないカネは機密費の可能性が極めて高くて、さらには税務申告を怠って所得税法違反の可能性すらあるという指摘をしている[19]

大学の先輩で政治評論家としても先輩の細川隆一郎には常に敬意を表していた。総理大臣秘書官出身の伊藤昌哉早坂茂三とも親しかった。 たちあがれ日本には応援メッセージを出して支持している[20]

2010年(平成22年)の沖縄県知事選挙について、「『日米同盟重視、県内移設』という幸福実現党の主張は一番現実的だった」「幸福実現党について、よくは知らないんだけど見聞きする限りでは断片的にはいいんだな。いいことを言っていると思います」という趣旨の発言をしたとして幸福実現党の機関紙「幸福実現News第15号」(党員限定版[21] )に掲載された[22]

小川榮太郎の『約束の日:安倍晋三試論』において三宅が朝日新聞主筆若宮啓文との対談で、安倍政権を倒すのが朝日新聞の社是だとする発言が紹介され、首相の安倍は2014年10月30日衆院予算委員会において、同様の発言をしたが、朝日新聞は翌31日の朝刊において「朝日新聞社に『安倍政権を倒す』という社是はなく、主筆が話したこともありません」とする記事を掲載した。

家族・親族[編集]

三宅家[編集]

岡山県倉敷市東京都杉並区阿佐谷南高井戸吉祥寺渋谷区神山町目黒区駒場田園調布、祐天寺)

三宅の著書に「三宅久之の書けなかった特ダネ 昭和~平成政治、25の真実」 (青春新書、2010年11月)がある。著書に書いた政治家についての自身の回顧によると、河野一郎から衆議院選挙で自由民主党からの出馬を打診されて、岡山県倉敷市出身であると答えたら、「岡山2区ならどうだ」と言われてマスコミから政治家転身を薦められたエピソードと、男4人兄弟の末っ子で3人の兄は国立大学の東京大学一橋大学を卒業して、堅い職業に付き、自分だけが私立大学の文学部を卒業してマスコミ関係者になったと記述している。

戦争がだんだん激しくなって1945年(昭和20年)には強制疎開となり、阿佐谷の家は防火を理由に壊された[1]。それで同じ杉並区内の高井戸に引っ越した[2]。母の妹が宮城県疎開して空いている家にそのまま住んだ[2]。当時の高井戸は田んぼとばかりの田舎だった[2]終戦後叔母が戻ったため、三宅家は吉祥寺の一軒家へと移った[2]。大学を出る年には吉祥寺から渋谷区神山町の家に引っ越した[2]麻生太郎(元首相)とも隣組のいわゆる高級住宅地だった[2]。元は鍋島家執事の家で土地二百五十坪に家が八十坪、戦前からのうんと古い家だった[2]毎日新聞に入ってからもしばらくはこの家で両親と同居していた[2]神山町の家を出た三宅は目黒区駒場に新居を構えた[23]。敷地面積四十の中古住宅だった[23]。しかしここはすぐに出て、妻が田園調布に安い出物を見つけてきて1964年(昭和39年)に引っ越した[23]。家の裏に環状八号線が通っていた[23]

実家
1893年明治26年)8月[24] 1989年平成元年)- 没。享年95。互光商事(株)社長[24]
千久三の長男[24]1917年大正6年)早大機械科卒業[24]汽車製造東京支店戸畑鋳物国産工業各勤務[24]日立製作所深川戸畑各工場長本社鉄鋼部長を歴任[24]1949年(昭和24年)互光商事を設立社長に就任す[24]趣味ゴルフ[24]宗教真言宗[24]岡山県倉敷市在籍[24]
三宅によれば「典型的な『明治の男』でもタバコもやらず囲碁将棋麻雀もしない。子ども心にお袋はよくこんな面白くない男と結婚したなあと思ってました」という[1]
同妻(東大名誉教授舞出長五郎五女[24]) - 舞出長五郎義父は実業家の滝沢吉三郎(瀧澤地業(名)代表社員[26])。
自家
大学時代演劇を通じて知り合い、記者時代取材先で偶然に再会、交際を重ねて1956年(昭和31年)に結婚した[23]
  • 息子3人(長男は昭和32年生まれ・次男は昭和34年生まれ・三男のは昭和39年生まれ)

出演番組[編集]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E4%B9%85%E4%B9%8B

もう亡くなっている方なのですが、生前はかなりの政治評論家みたいで、敏腕だったに違いないかと思います。

彼自身は亡くなっておりますが、どうなのでしょうか?

かなり敏腕だったに違いないかと思いますね。

 

有馬晴海 政治評論家

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経歴[編集]

1958年、鹿児島県川辺郡坊津町出身[1]立教大学経済学部卒業。 リクルート社に入社。当時優秀社員ベスト10人内の1人に入る成績を収めた[2]唯一の男性社員だった。1985年リクルートを退職し、国会議員秘書へ転身。1996年に政治評論家として独立。 現在はテレビラジオ出演や、新聞雑誌での政治評論や講演活動を続ける一方、研究会「隗始塾」[3]を主催している。また、ポスト小泉レースにおいて用いられた麻垣康三という造語を発案した。

出演[編集]

テレビ[編集]

準レギュラー[編集]

ゲスト[編集]

ラジオ[編集]

著作[編集]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E6%B5%B7

もともとリクルート出身でかなりのやりてのエリートであることは、間違いない気がします。

リクルートを退社してから国家意義委員秘書へ転身し、その後は政治評論家になりました。

経済の流れやどんな内容なのかわかるようになっているかもしれませんね。

まだまだご顕在の為、今後の活躍が楽しみです!

 

三浦瑠璃 政治評論家

https://www.zakzak.co.jp/images/news/190104/soc1901040008-m1.jpg

略歴[編集]

神奈川県茅ヶ崎市出身[5]。父親は心理学者の濱村良久。幼少期に神奈川県平塚市に移住。平塚市立金旭中学校卒業。1999年(平成11年)3月に神奈川県立湘南高等学校を卒業し、同年4月東京大学理科一類に入学[4]2001年(平成13年)4月に同大学農学部生物環境科学課程地域環境工学専修に進む[4]2003年(平成15年)、同大の先輩・三浦清志と結婚した[8]。一児の母[9]2004年(平成16年)1月、論文「『日本の国際貢献のあり方』を考える」により、自由民主党が主催した第1回「国際政治・外交論文コンテスト」の総裁賞を受賞[8][10]。同年3月に同大学を卒業[4]。同年4月、東京大学大学院公共政策学教育部(公共政策大学院)専門修士課程に入学し、国際政治学者の藤原帰一の下で学ぶ[11]2006年(平成18年)3月、同課程を修了し、公共政策修士(専門職)を取得[4]2010年(平成22年)10月、東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻博士課程を修了し、博士(法学)を取得。学位取得論文は、「シビリアンの戦争 : 文民主導の軍事介入に関する一考察」[12]

2007年(平成19年)4月、日本学術振興会特別研究員(DC2、2009年(平成21年)3月まで)[4]。2010年(平成22年)、論文「長期的視野に立った成長戦略―ワーキングマザー倍増計画」により、東洋経済新報社が主催した第26回高橋亀吉記念賞の佳作を受賞[13][14]2010年三菱UFJリサーチ&コンサルティング主催懸賞論文コンテストの第3回「私ならこう変える! 『国と地方の新しいカタチ』」において「グローバル化の中の道州制」で優秀賞獲得(大賞は該当者なし)[15]2011年平成23年)1月、東京大学政策ビジョン研究センター安全保障研究ユニット特任研究員(2013年(平成25年)3月まで)[4]2013年(平成25年)4月、日本学術振興会特別研究員(PD)、青山学院大学兼任講師(青山スタンダード科目)[4]2014年平成26年)から自らの政治的見解を綴るブログ「山猫日記」を開始。

2015年平成27年)に「山猫日記」の内容を再編集した「日本に絶望している人のための政治入門」を文春新書から出版し、元日に「ニッポンのジレンマ」でメディアに初登場して以降「朝まで生テレビ!」に出演し、以降、ほぼ毎回出演。8月、共同通信の第三者機関「報道と読者」委員会の第8期委員に就任(第9期まで)[16]

2016年平成28年)3月から2019年(平成31年)2月まで、東京大学政策ビジョン研究センター講師[17]。12月、「BLOGOS AWARD 2016」銅賞受賞[18]2017年(平成29年)2月、自由民主党副総裁の高村正彦と共著を出版。12月、第18回正論新風賞を受賞[19]

人物[編集]

夫は東京大学の先輩で[8]投資ファンド代表、元外務省職員。娘が1人いる[20]

幼少期は児童文学から若草物語などの少女もの、円地文子幸田文ら女流作家、源氏物語蜻蛉日記など日本の古典文学を読み漁る。学生時代は集団行動に馴染めず、高校進学後も授業に出ずに鎌倉江の島へ行くことが多かったという[21]

東京大学教養学部理科I類ではクラス50人中女子は2人しかいなかったため、男子学生とは話も合わず試験プリントが回ってこないこともあり、自然とキャンパスから足が遠のいていったという。その後、地球環境問題を学ぶために農学部地域環境工学専修を専攻。しかし、想像していた勉強と違っていたため進路を考えるために留年。他学部の授業を受けているうちに船橋洋一ゼミで政治学に関心を持ち、文系に転身して公共政策学教育部専門職学位課程に1期生として入学。その頃に始まったイラク戦争で、アメリカの軍人たちが反対していたことに興味を持ち、博士論文でシビリアンコントロールの研究を始める[22][23]

2015年元日の『ニッポンのジレンマ』パネリスト依頼を皮切りに、様々な討論番組へ出演している。議論について三浦は「日本に存在する『ハイ論破!』という文化は有害」「はい論破!という雰囲気が左右両方にあるのはわるいこと。論破なんかできるわけがない。自分の議論を示しつつ相手の議論の不備や死角を指摘できるだけ。昔は保守はそれがわかってて閉じこもりリベラルの方が教化を目指してたけど、最近両方憎しみで目が曇ってる感あり」「官僚が使う言葉を借りれば『議論するときは同期』という姿勢こそが正しい」と述べている[24]

米国ジャーマン・マーシャル財団英語版研究員(当時)のジョシュア・W・ウォーカーと共同で東日本大震災に関する論文を発表している[25][26][27][28]

レギュラー番組の中で「日常生活では『S』だと思われがちだがプライベートでは『Mっ気』がある」と語っている[29]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E7%91%A0%E9%BA%97

実におきれいなのに政治評論家なんてかなり高感度はあるかと思います。

いろんな方が彼女のことを叩いてますが、どうなのでしょうか?

実際は違うような気がしますね。

今後の活動楽しみにしてます。

 

 

岩見隆夫 政治評論家

https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-39-13/nisekoannnuburi/folder/1002167/19/18529019/img_0

略歴[編集]

関東州(現中国)の大連で生まれ、山口県防府市で育つ。山口県立防府高等学校京都大学法学部卒業後、1958年毎日新聞社入社。社会部記者、政治部記者、政治部副部長、秘書室長、論説委員、出版局次長兼サンデー毎日編集長、編集委員室長、東京本社編集局次長、編集局編集委員、編集局政治担当特別顧問を最後に、2007年3月31日で退社。

毎日新聞の編集局長時代には、夕刊紙上で「グリコ事件で取り調べ 江崎社長の知人ら4人」と一面から社会面まで誤報を掲載した経緯がある(毎日新聞のグリコ・森永事件に関する捏造事件)。後日辞任し「行き過ぎ紙面を自戒」と紙上に文面を掲載した。

政治評論家としても活動しており、毎日新聞サンデー毎日に連載欄を持つ。政見は改憲容認など毎日新聞の社論よりは保守的なものが多い。1992年には連載企画「新編・戦後政治」やコラム「近聞遠見」の執筆で、政治報道に新生面を開いたことが評価されて、日本記者クラブ賞を受賞している[1]

毎日新聞社退社後は、クルーズ客船飛鳥II」による約3ヶ月間の世界一周旅行(2007年4月初旬放送のTBSみのもんたの朝ズバッ!』にてクルーズ客船を特集した際、出発間近の同船に岩見が乗ることをみのもんたが口にした)を経て、2007年夏頃より毎日新聞客員編集委員として再始動。9月13日には春までレギュラー出演していたテレビ朝日やじうまプラス』で久々に出演した。

2012年10月1日付で特別顧問に就任。

2013年、自ら末期肝癌であることを公表。5月24日に緊急手術を受けたため、一切の仕事を取り止めて治療に専念するものの、新聞『近聞遠見』、サンデー毎日『サンデー時評』の両コラムは継続する意向を示していた[2]

2014年1月18日、肺炎のため死去[3]。78歳没。

コラム「近聞遠見」[編集]

1989年9月から毎日新聞で政治コラム「近聞遠見」を週1回連載していた。2013年12月7日付け『政治家の伴侶としての「女」』が絶筆となる。

事実誤認[編集]

2009年5月30日毎日新聞に掲載されたコラム「近聞遠見」において、事実誤認に基づき首相を批判したことが問題になった。

問題のコラムで岩見は、麻生太郎首相と鳩山由紀夫民主党代表との初の党首討論での麻生の発言の一部を取り上げ、「「殉じる」とは言ってない」との見出しで「麻生の思い込み」と非難していた[4]。しかし、鳩山は「小沢氏の下での幹事長だ。殉じるときは殉じる」と発言しており[5][6][7]、実際には岩見の思い込みであった。

2009年6月13日に同コラムの末尾に「お詫び」と題する訂正が出された[8]。「筆者の記憶、調査が不十分だったための間違いで、深くおわびし、訂正します」と説明している。ネット版では問題の回のコラムが削除された。

役職[編集]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E8%A6%8B%E9%9A%86%E5%A4%AB

面白い方でしたね。テレビでよくお見かけせれていましたが、今現在はみることができなくなりました。岩見さんの用に物事をはっきりと語る方は少なかったので面白かったですが、2014年に無くなられて残念です。

 

田崎史郎 政治評論家

https://pbs.twimg.com/media/DUbMJEdVAAICHCd.jpg

来歴[編集]

福井県坂井郡三国町(現:坂井市)生まれ[1]福井県立藤島高等学校を卒業後、中央大学法学部法律学科へ入学する。大学2年時に三里塚闘争へ参加し、凶器準備集合罪逮捕のうえ13日間留置される[2]

1973年3月、同大学を卒業後、同年4月、時事通信社に入社。経済部を経て、1975年浦和支局に異動を命じられたが、少数派の労働組合に所属していたことを理由にした左遷で不当労働行為であるとして会社を提訴。その後、3年3か月後に政治部へ異動することを条件に和解

1979年に政治部に異動となり、大平正芳内閣総理大臣番記者[3]になる。以後、新自由クラブ外務省担当を経て、1982年4月人事にて、田中派を担当[4]。以来、ずっと平成研究会を中心にして政治記者として活動し、並行して、整理部にて、整理部長、編集局総務としてトータル8年勤務し、解説委員に異動。2006年から解説委員長となり、以後、民放キー局の報道、ワイドショー、バラエティ番組にて政局解説として出演する様になる[5]

2010年6月30日付人事にて、定年後の再雇用にて引き続き勤務し[6]、再雇用契約が終了後に特別解説委員の肩書で再度、会社と契約し[7]

2018年6月末付けにて、内規の68歳に達し、特別解説委員を退職[8]。以後、フリーの政治評論家として、メディアでの言論活動を継続している。2019年1月から駿河台大学客員教授

人物[編集]

  • 2013年、自民党政党交付金から組織活動費名目で資金提供を受け、2013年から2015年にかけて安倍晋三らと懇談していた事や安倍本人と自民党に対し擁護や理解を示す発言が多いことが理由で、安倍と敵対してるメディアから、“田崎スシロー”(寿司郎)とも揶揄されている[9]

小沢一郎との関係[編集]

田中派の担当記者になって以来、小沢一郎とは毎晩のように呑む間柄だったが[10]1992年1月以来、小沢から一方的に遠ざけられ、取材できない状態になったという[11]1993年に成立した細川内閣で最大の実力者となった小沢について、マスメディアが伝える小沢像は虚像であり、自分の知っている小沢の実像を伝えたいとの思いから、田崎は『文藝春秋1994年10月号に「小沢一郎との訣別」と題した記事を発表した[12]

1982年の自由民主党総裁選挙の際に小沢が田中派支持下の中曽根康弘を評して「担ぐ御輿は軽くてパーがいい」と発言したことや、小沢が自由民主党幹事長時代に海部俊樹総理を評して「海部は本当に馬鹿だな。宇野の方がよっぽどましだ」と発言したことなど、小沢のこれまでの数々のオフレコ発言を明かして[13]話題になる[14][15][16]。小沢サイドからは何の反応もなかったが、日本新聞協会時事通信に対してオフレコを破ったことの事情説明を求めた[17]時事通信はオフレコを破った田崎に対して、2週間の出勤停止、その分の給与の減額、翌年の賞与の減額という処分を下した[18]

田崎は、相手に取材できなくなるならオフレコ破りはしないほうがよいという立ち位置であった[19]。すでに小沢からは何の通告もなく一方的に無視されて事実上の取材拒否となっており、オフレコ破りをしても何の障害もない状態であったため、オフレコ破りをしたと主張している。田崎は、小沢から取材拒否されるようになった原因について、自身の諫言を小沢が嫌ったことや、小沢の政敵となった梶山静六と自身が親しくしていたことなどを推測している[20]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%B4%8E%E5%8F%B2%E9%83%8E

小沢一郎さんとは、かなりの仲だとの事ですね。

毎晩、飲む間柄なのは良いかと思います。