中西輝政 国際政治学者

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国際政治学者として政治を語り、学者としても数々の受賞歴があるなど、輝かしい実績を誇るのが中西輝政さんです。京都大学名誉教授を務めるなど、専門は国際政治史ですが、政治活動も行っており、保守系の政治家との関係が近い人物です。


1947年6月18日、72歳の中西輝政さんは大阪府の出身です。進学校の高校を卒業すると京都大学法学部に進学し、そのまま京都大学大学院に進み、修士課程を修了、その後はケンブリッジ大学で学ぶなど、国際政治学の研究を行います。大学教員として京都大学三重大学などで働き、1989年、中西さんが42歳の時に静岡県立大学国際関係学部の教授に。1995年には京都大学大学院に戻り教授となり、2012年に京都大学名誉教授を務めるまでになります。


受賞歴も多く評価されることが多い中西さんですが、そのスタンスは保守そのもの。それでいて安倍総理のブレーンとして活動していた時期もありました。2003年には当時の安倍議員の選挙運動のはがきに推薦人として登場したことで公職選挙法違反を指摘され、問題になります。政治姿勢を評価しており、当時話題になった美しい国の構想を練るなど関係性は良好だったはずでしたが、後に安倍総理が戦後70年談話など保守派が改めてほしいことを改めてくれなかったことで評価を一変させ、2016年には安倍総理との決別を宣言するにまで至ります。


一方、同じ保守でも小泉純一郎氏に対する評価はいいものではありませんでした。ポピュリズム的なやり方が感心できないとし、実際に行った政策自体も支持をするのが憚られるようなものであったため、批判を強めます。中西さんが願っていたのはもっと保守的な政治をする政治家の存在。だからこそ、安倍総理や元都知事石原慎太郎さんを評価するなど、一貫性がありますが、その中西さんが安倍総理との決別を宣言するということは、それなりのことだったと言えます。


現在も精力的に活動しており、毎年のように著書を出しています。その内容は専門の国際政治に関することから日本の将来を憂うようなものまで様々。その論陣は決して揺らぐことはなく、堂々と自分の意見を発している姿勢は、かなり保守的な政治を望む人たちにとって頼もしく、評価は高いです。一方、テレビ出演はそこまで多くなく、知名度的には高くありません。学者から見たあるべき日本の姿、政治家の姿を語り、賛同を得ることが多いのは間違いなく、今後の論陣の張り方に注目が集まります。

 

田崎史郎 政治評論家

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政治評論家を名乗る人の多くは新聞記者、メディアの記者として政治を扱っていたことから、政治に携わり続けるケースが少なくありませんが、メディアに頻繁に登場する田崎史郎さんもその1人です。安倍総理との関係が近く、時に安倍総理を擁護する発言を連発させ、野党やその支持者から批判を受けることもしばしば。自民党との距離が近い政治評論家です。


1950年6月22日生まれ、69歳の田崎史郎さんは福井県坂井郡三国町の出身です。地元の高校を卒業すると中央大学法学部へ進学しますが、この当時は学生闘争の時代。大学2年生の時には、新東京国際空港の建設反対でも有名な三里塚闘争へ参加したことで逮捕され、警察署に留置される経験をします。


その後、1973年に大学を卒業すると時事通信社に入社。1975年とある異動が左遷にあたり、その理由が労組に所属していただけでこれはおかしいと会社を提訴し、数年後に政治部へ異動することで和解が成立し、その数年後、政治部に移動します。
最初に担当したのが時の総理大平正芳総理の番記者。総理の番記者は政治部の若手がやる慣習があり、それにならった形です。その後担当が変わる中、田中派を担当するようになると、小沢一郎氏など旧田中派系列の政治家を取材する役回りになり、解説委員へ移動、解説委員長になってからは現在のようなテレビでの活躍につながっていきます。現在は定年後の再雇用期間も終了し、完全フリーな政治評論家の立場で政治を語っています。


大胆なことをするのも田崎さんの手口で、一時期仲が良かった小沢一郎氏が全く取材に応じず、それならばということで1994年小沢一郎氏のオフレコ発言を雑誌で紹介し、時事通信から処分されます。このことで当時キャスターをしていた櫻井よしこさんに雑誌上で批判され、記者失格の烙印を押されるほど。オフレコでの発言を記者が勝手に破ることは当時としては許されない行動でしたが、既に取材できない状態なんだから何の問題もないという狙いがあったそうです。


安倍総理との距離は近く、ここ数年は一緒に食事を頻繁に行っており、政権寄りであると批判を受けます。最近ではいかに権力と近いことにいるかを主張する政治評論家が増えていますが、田崎さんはその先陣を切る勢い。一方で難しい政治の話題をできるだけ分かりやすく紹介することも事実で、結果的にキー局のワイドショーに複数出演を果たすなど、ある種のスポークスマン的な扱いを受けています。

高森明勅 皇室研究者

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長年議論が交わされてる皇位継承問題など、様々な論争の中で自分の意見を揺るぎなく主張するのが高森明勅さんです。皇室研究者として皇位継承問題などを語るのと同時に、構造改革など政治にかかわる分野にも精通し、著書も多く出しています。

 

1957年生まれ、令和元年には62歳になる高森明勅さんは、岡山県倉敷市の出身です。千葉県柏市にある全寮制の麗澤高等学校を卒業すると、國學院大學に進学、そのまま大学院の博士課程までを修了し、評論家としてデビュー、著書なども出します。主に皇室に関するコメンテーターとして呼ばれるかたわら、拓殖大学日本文化研究所客員教授を務め、新しい歴史教科書をつくる会では副会長を務めている高森さん。

 

保守的な考えを持っているため、テレビ出演、動画出演などは主に保守的な思想を持つ人たちに受け入れられたものが多いです。その中の1つ、チャンネル桜では、地上波ではあまり取り上げることがなかったようなものを取り上げ、熱狂的な支持を集めましたが、デモ運動などの類には参加せず、意見の食い違いなどもあって、後に降板します。
高森さんはいくつかの主張を持っており、その中の1つが皇位継承問題です。このままでは男系が途絶える、そんな危惧がされ始めた2000年代中期、当初男系継承を支持していましたが、側室制度がない現状では難しいとして女系天皇容認に転換。その中で、直系を優先し、兄弟間では男子を優先すべきと提言します。この意見は、チャンネル桜のキャスター陣の中でも賛否両論が巻き起こります。保守の人でありながら、同じ保守の人からあまりいいように見られていない、正直に物を語るがあまり、敵も作ってしまっているようです。

 

もう1つ、意見で食い違いを見せたのが構造改革の部分です。2000年代中期、小泉内閣の改革路線はあまり保守層の中で受け入れられるものではなく、チャンネル桜でも疑いの眼差しが向けられていましたが、高柳さんはその構造改革にいい感情を持ち合わせており、第1次安倍内閣で成立した改正国家公務員法は、小泉内閣でもできなかった快挙と激賞。選択的夫婦別姓制度にも理解を示すなど、独自の考え方を常に持ち続けます。
テレビなどに登場する機会は皇室関係のコメントを求められる場合に限られているのが現状ですが、どのような環境の中であっても自分の意見はしっかりと述べる、その強い姿勢が高柳さんの大きな特徴であり、高柳さんの良さであると言えます。

麻生良方 政治評論家

 

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来歴・人物[編集]

戦前の無産政党の指導者麻生久の長男として生まれた。少年時代は詩人に憧れ、1943年昭和18年)に詩集『青薔薇』を自費出版して近所の書店に置いてもらったという経験がある。

旧制開成中学(現開成高等学校)を卒業し、1945年(昭和20年)早稲田大学文学部を中退後、日本社会党本部に入り、1950年(昭和25年)に浅沼稲次郎の秘書となる。1959年第5回参院選では東京都選挙区から社会党公認で立候補するが落選。1960年昭和35年)に民主社会党の結成に参加。同年の第29回衆議院議員総選挙では、西村栄一によって浅沼の東京1区刺客として送り込まれたが、たまたま浅沼が殺された(浅沼稲次郎暗殺事件)ことも相まって、社会党は浅沼の妻享子を身代わり立候補させ同情票が集まり、麻生は「裏切り者」と批判され落選した。しかし1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙に初当選し、以後3回連続当選を果たす。党副書記長などを歴任。

1965年(昭和40年)、国会内の芸術議員連盟を基盤として、通商産業省認可団体社団法人国際芸術見本市協会を設立、初代理事長に就任、翌1966年(昭和41年)3月には協会最初の事業として第1回ジャパン・アート・フェスティバル(日本芸術祭)をニューヨークにおいて開催した。

1972年(昭和47年)の落選を機に離党し、政治評論家に転進、マスメディアで活動する。1976年(昭和51年)には無所属で東京1区から出馬して見事にトップ当選を果たし宇都宮徳馬鳩山邦夫ら都内の他の選挙区選出の代議士と「無党派クラブ」、1979年(昭和54年)の東京都知事選では代議士辞職をして無所属で立候補し鈴木俊一太田薫と争うも落選。同年秋の第35回衆議院議員総選挙にも落選して返り咲きを果たせず、政治家廃業宣言を行って麻生情報文化研究所を設立、所長となる。

1995年(平成7年)2月21日死去。享年71。

逸話[編集]

三島由紀夫の親友の一人で、三島の小説『贋ドン・ファン記』のモデルとなった[1]1967年には三島から「やらないのは政治だけだが、どうしてもこれをやってみたい」と相談を受けたことがある[2]

1968年創刊の文芸雑誌ポリタイア」の同人であり、世耕政隆とは党派の別を超えてともにスポンサーとなっていた。

主要著書[編集]

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E8%89%AF%E6%96%B9

 

もうすでに亡くなっている方ですが、かなり良いコメントを残しておりますので斬新な考えでコメントがあります。

今後の政治評論家が気になりますね。

本当にどうなるのでしょうか?

今後の日本は。。。

有馬晴海 政治評論家

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何かと政治のことでコメントを求められる政治評論家、その中でも様々な媒体でコメントを求められているのが有馬晴海さんです。政治評論家になってからは比較的長く、どちらかといえば与党寄りではありながらもバランスを取りながら評論をしていく姿に共感の姿勢を持つ人が多いです。

 

1958年4月2日生まれ、61歳の有馬晴海さんは鹿児島県川辺郡坊津町出身です。立教大学経済学部を卒業するとリクルートに入社。リクルートでは優秀な若手社員として評価されていましたが、1985年にそのリクルートを退職します。次に選んだのが国会議員の秘書でした。当時の国会は中曽根内閣が強さを見せていたものの、それ以降の内閣が消費税導入などの懸案事項に挑んだために、参院選で波乱が起きるなど、後に起こる政権交代の予兆が見られました。有馬さんはまさにその政権交代が起こる過程を国会議員秘書として感じ取ることになります。

1996年には国会議員秘書を辞めて政治評論家に転身。その直前には議員秘書としての裏話を本にするなど活動しており、これ以降は様々な媒体での活躍が目立ちます。政治評論家の中には特定の政党の議員だけと仲がいい人がいますが、有馬さんは自民党だけでなく、公明党立憲民主党共産党など党派に関係なくインタビューを行い、議員の資質を目の前で見ています。そのため、政治評論はバランスがとれており、願望のようなものがあまりない比較的中立的なものが多いです。

有馬さんの功績としては麻垣康三というフレーズを生み出したことです。ポスト小泉は誰になるのかと言われていた2005年春すぎ、有馬さんは分かりやすくポスト小泉にふさわしい政治家をピックアップしたところ、麻生太郎の朝、谷垣禎一の垣、福田康夫の康、安倍晋三の三を組み合わせ発案。これをサンデー毎日が取り上げたことで、この言葉が様々な媒体で用いられました。ポスト小泉レースでは、この中の3人は首相を経験し、残りの谷垣さんは自民党総裁を務めるなど、その人選がいかに順当なものだったかが分かります。


現在、有馬さんは関西を中心にテレビの仕事を入れており、たまにキー局のコメンテーターで出ることがあります。選挙が近付けば議席の予測をする他、講演活動で地方に呼ばれることが多く、有馬さんがこれまでに経験してきたこと、現在の国会の状況など、なかなかテレビでは聞くことができないディープな永田町の裏話が聞けるので講演依頼がかなり集まっています。

三宅久之 政治評論家

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来歴[編集]

生い立ち[編集]

1930年昭和5年)、現在の東京都杉並区阿佐谷南一丁目、杉並区役所のすぐ隣の家で生まれた[1]。父は日立製作所技術者[1]。6歳のときに父が北九州工場に総務課長として赴任して戸畑市(現北九州市戸畑区)に引っ越して社宅暮らしになった[1]

学生時代[編集]

太平洋戦争大東亜戦争)が始まった翌年東京府立十九中(現:都立国立高校)に入学[1]ゲートル巻いて国民服のような制服を着て通った[1]。三年生から昭島に通い、九七式艦上攻撃機などの海軍の飛行機をつくる会社で組み立て作業をした[1]。 

1949年(昭和24年)に早稲田大学第一文学部独文科に入学[2]

記者時代[編集]

大学卒業後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社した。政治部記者から始まり、吉田茂番記者などを経て、政治部副部長、静岡支局長、特別報道部長を歴任する。1976年(昭和51年)に毎日新聞社を退社した後、フリーランス政治評論家となる[要出典]

政治評論家、コメンテーターとして[編集]

1978年(昭和53年)10月から~1985年(昭和60年)3月まで、テレビ朝日ANNニュースレーダー』の木曜日から土曜日まで(当初は金曜日と土曜日)のキャスターを務める。その後、同局の『やじうまワイド』や『新・アフタヌーンショー』などにコメンテーターとして出演するようになった[要出典]

昭和から平成になってからはテレビ朝日ビートたけしのTVタックル』に出演するようになり、三宅の知名度が向上した。2000年代からは読売テレビたかじんのそこまで言って委員会』などの討論系バラエティ番組にレギュラー出演していた[要出典]

引退[編集]

2012年平成24年)、評論家活動からの引退を表明した[3]たかじんのそこまで言って委員会』については、やしきたかじんが復帰するまでという条件で延期する形式で引き続き出演していたが、同年6月から休養に入り、代わりに自身が開設したアメーバブログの『三宅久之の小言幸兵衛』で評論する事として、続いて三宅個人の公式Facebookフェイスブック)も開設した。番組のレギュラーについては津川雅彦を後継者に指名した。糖尿病の影響で自分は決して長寿にならないと公言し[要出典]、80歳過ぎから心肺機能が低下して車椅子と携帯酸素の使用が増えていた[3]。同年の2012年自由民主党総裁選挙では安倍晋三を支持する応援団となった[4]。その際に、三宅はすぎやまこういち金美齢らとともに、安倍の事務所を訪れ、「内外の脅威にさらされるわが国の国家的危機を乗り越えるには安倍総理の再登板しかない」との声明文を手渡している[4]。最後に面会した友人はベナン共和国の駐日大使ゾマホン・ルフィンであった[5]

死去[編集]

同年11月15日朝、東京都内の自宅で倒れ病院に搬送されたが同日午前8時46分に死去。82歳没[6]。死去の5日前には、病院を退院し、快方に向かっていることを伺わせていた上[7]、死去した後も三宅自身のブログ「小言幸兵衛」のトップページには「三宅の入院で、多くの方々からお見舞いと激励のコメントをいただき、ありがとうございました。おかげさまで退院し自宅で療養中です。ブログとフェイスブックは間もなく再開いたしますので、もうしばらくお待ち下さい。」とある等、三宅の死はあまりにも急であったために、関係者を中心にかなりの動揺が走った[7][6][8]。また、自身が最高顧問を務めていた『たかじんのそこまで言って委員会』のホームページなどでも、追悼のコメントが出されている[9]。同年12月にインターコンチネンタルホテル東京で「三宅久之お別れの会」が開かれた。 2012年平成24年)12月(正式には2013年(平成25年)1月)から三宅の三男・三宅眞(昭和39年生まれ、現・狛江市議会議員)がブログの「愛妻・納税・墓参り 家族から見た三宅久之回想録」を開設した。[10]

人物[編集]

座右の銘は「愛妻・納税参り」。愛妻家であり、夫婦旅行のため番組を休むこともあった。平成期に渡部昇一などと1930年昭和5年生まれ)の昭和で最初の午年生まれの著名人の同級生会の昭和初午会を組織した[11][12]昭和一桁世代の三宅より1つ世代が上の大正世代の戦死した若い日本兵を尊敬している事から靖国神社によく参拝していた。2006年(平成18年)には金婚式を迎えた[要出典]

読売新聞グループ本社代表取締役会長の渡邉恒雄とは新聞記者時代からの友人だった[13]

何度か選挙出馬を持ちかけられたこともあったが、総て辞退している。出馬辞退については、晩年「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」と語っている。大臣の秘書官になることを誘われた時も、「子分になると、あなたに直言できなくなる」という理由から断っている[14]

威厳ある天皇像を望み、天皇が被災地で膝行したり、天皇が手を出す前に握手を求める者に天皇が応じることに否定的であり、そんな手は撥ね退けるべきと主張している[15]。また、女性宮家の是非については、『たかじんのそこまで言って委員会のそこまで熱くなって委員会』[16][17] や自身のFacebook等で一応賛成だが、女系天皇を認めることに対しては疑問を呈し、「伝統を失えば天皇制ではなくなり、男系を維持するべき」と云う考えを主張している[18]

ほかの政治評論家と同様、100万円の内閣官房報償費(官房機密費)の提供を受けていたことが写真週刊誌フォーカス(現在は休刊)の2000年(平成12年)5月31日号「極秘メモ流出!内閣官房機密費をもらった政治評論家の名前」で紹介されている。ただし本人は、まったくの誤報だと主張して、早稲田大学の学生時代からの知り合いの藤波孝生衆議院議員官房長官だったときに、「講演を2つ頼まれているが、官房長官は東京を離れるわけにはいかないので、代わりに肩代わりしてくれないか」と代役を頼まれ講演に行ったら、後日、藤波官房長官の事務所から議員秘書が講演料を届けにきて、代役で受けた講演の対価として講演料を受領しただけの話で、官房機密費とは知らなかったと否定している(「たかじんのそこまで言って委員会」2010年5月16日放送より)。この説明に対して、同番組にも出演していたジャーナリストの上杉隆週刊ポスト誌上で行った取材に対して「(代理講演を)引き受けることにしたら秘書が100万円を持ってきた。藤波のポケットマネーだと思って受け取りました。領収証も書いていない」と答えた三宅の発言を紹介して、内閣官房からの領収書のないカネは機密費の可能性が極めて高くて、さらには税務申告を怠って所得税法違反の可能性すらあるという指摘をしている[19]

大学の先輩で政治評論家としても先輩の細川隆一郎には常に敬意を表していた。総理大臣秘書官出身の伊藤昌哉早坂茂三とも親しかった。 たちあがれ日本には応援メッセージを出して支持している[20]

2010年(平成22年)の沖縄県知事選挙について、「『日米同盟重視、県内移設』という幸福実現党の主張は一番現実的だった」「幸福実現党について、よくは知らないんだけど見聞きする限りでは断片的にはいいんだな。いいことを言っていると思います」という趣旨の発言をしたとして幸福実現党の機関紙「幸福実現News第15号」(党員限定版[21] )に掲載された[22]

小川榮太郎の『約束の日:安倍晋三試論』において三宅が朝日新聞主筆若宮啓文との対談で、安倍政権を倒すのが朝日新聞の社是だとする発言が紹介され、首相の安倍は2014年10月30日衆院予算委員会において、同様の発言をしたが、朝日新聞は翌31日の朝刊において「朝日新聞社に『安倍政権を倒す』という社是はなく、主筆が話したこともありません」とする記事を掲載した。

家族・親族[編集]

三宅家[編集]

岡山県倉敷市東京都杉並区阿佐谷南高井戸吉祥寺渋谷区神山町目黒区駒場田園調布、祐天寺)

三宅の著書に「三宅久之の書けなかった特ダネ 昭和~平成政治、25の真実」 (青春新書、2010年11月)がある。著書に書いた政治家についての自身の回顧によると、河野一郎から衆議院選挙で自由民主党からの出馬を打診されて、岡山県倉敷市出身であると答えたら、「岡山2区ならどうだ」と言われてマスコミから政治家転身を薦められたエピソードと、男4人兄弟の末っ子で3人の兄は国立大学の東京大学一橋大学を卒業して、堅い職業に付き、自分だけが私立大学の文学部を卒業してマスコミ関係者になったと記述している。

戦争がだんだん激しくなって1945年(昭和20年)には強制疎開となり、阿佐谷の家は防火を理由に壊された[1]。それで同じ杉並区内の高井戸に引っ越した[2]。母の妹が宮城県疎開して空いている家にそのまま住んだ[2]。当時の高井戸は田んぼとばかりの田舎だった[2]終戦後叔母が戻ったため、三宅家は吉祥寺の一軒家へと移った[2]。大学を出る年には吉祥寺から渋谷区神山町の家に引っ越した[2]麻生太郎(元首相)とも隣組のいわゆる高級住宅地だった[2]。元は鍋島家執事の家で土地二百五十坪に家が八十坪、戦前からのうんと古い家だった[2]毎日新聞に入ってからもしばらくはこの家で両親と同居していた[2]神山町の家を出た三宅は目黒区駒場に新居を構えた[23]。敷地面積四十の中古住宅だった[23]。しかしここはすぐに出て、妻が田園調布に安い出物を見つけてきて1964年(昭和39年)に引っ越した[23]。家の裏に環状八号線が通っていた[23]

実家
1893年明治26年)8月[24] 1989年平成元年)- 没。享年95。互光商事(株)社長[24]
千久三の長男[24]1917年大正6年)早大機械科卒業[24]汽車製造東京支店戸畑鋳物国産工業各勤務[24]日立製作所深川戸畑各工場長本社鉄鋼部長を歴任[24]1949年(昭和24年)互光商事を設立社長に就任す[24]趣味ゴルフ[24]宗教真言宗[24]岡山県倉敷市在籍[24]
三宅によれば「典型的な『明治の男』でもタバコもやらず囲碁将棋麻雀もしない。子ども心にお袋はよくこんな面白くない男と結婚したなあと思ってました」という[1]
同妻(東大名誉教授舞出長五郎五女[24]) - 舞出長五郎義父は実業家の滝沢吉三郎(瀧澤地業(名)代表社員[26])。
自家
大学時代演劇を通じて知り合い、記者時代取材先で偶然に再会、交際を重ねて1956年(昭和31年)に結婚した[23]
  • 息子3人(長男は昭和32年生まれ・次男は昭和34年生まれ・三男のは昭和39年生まれ)

出演番組[編集]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E4%B9%85%E4%B9%8B

もう亡くなっている方なのですが、生前はかなりの政治評論家みたいで、敏腕だったに違いないかと思います。

彼自身は亡くなっておりますが、どうなのでしょうか?

かなり敏腕だったに違いないかと思いますね。

 

有馬晴海 政治評論家

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経歴[編集]

1958年、鹿児島県川辺郡坊津町出身[1]立教大学経済学部卒業。 リクルート社に入社。当時優秀社員ベスト10人内の1人に入る成績を収めた[2]唯一の男性社員だった。1985年リクルートを退職し、国会議員秘書へ転身。1996年に政治評論家として独立。 現在はテレビラジオ出演や、新聞雑誌での政治評論や講演活動を続ける一方、研究会「隗始塾」[3]を主催している。また、ポスト小泉レースにおいて用いられた麻垣康三という造語を発案した。

出演[編集]

テレビ[編集]

準レギュラー[編集]

ゲスト[編集]

ラジオ[編集]

著作[編集]

 

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E6%B5%B7

もともとリクルート出身でかなりのやりてのエリートであることは、間違いない気がします。

リクルートを退社してから国家意義委員秘書へ転身し、その後は政治評論家になりました。

経済の流れやどんな内容なのかわかるようになっているかもしれませんね。

まだまだご顕在の為、今後の活躍が楽しみです!