田中康夫 政治評論家

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政治評論家として一番発言に信頼感が持てるのは、元々政治をやっていた人物、政治に携わっていた人物です。その中の1人に田中康夫さんがいます。1956年4月12日、63歳の田中康夫さんは東京都武蔵野市の出身です。父親は信州大学の教授で、幼いころに長野県に移住し、高校まで長野県に在住、1浪の末、一橋大学に合格しますが、この浪人時代のエピソードが、作家としてのデビュー作にしていきなりベストセラーとなった「なんとなく、クリスタル」につながります。


一橋大学を卒業した田中さんは日本興業銀行から内定を得たものの、サークルのお金を横領したとして停学になり、内定取り消しに。その停学期間に「なんとなく、クリスタル」を執筆、無事に卒業するとモービル石油に入社し、作家業と両立を図ったものの、わずか3か月で断念し、作家業に専念。その後、タレントや作家としてテレビに出続けますが、1995年の阪神淡路大震災でボランティアを行う一方、神戸市の公共事業をめぐる問題などに触れ、政治に目覚めるようになります。2000年、幼少期を過ごした長野県知事選挙に出馬し当選、記者クラブ廃止など新聞記者からの猛批判を食らうなど、奇抜なことをやり続け、一度は不信任決議が可決され失職するも再選、2006年に落選すると、今度は参院選に鞍替えし当選。新党日本の代表として与党の一員となりますが、2012年に落選し、その後も選挙に出ますが国政復帰は果たせていません。


政治評論を行うようになった田中さん、それまで自民党はなかなか実態がつかめないと揶揄していましたが、政権交代で自らが与党の一員になると、大人の政治をしていたのは自民党だったという事実を思い知るようになります。過去には揶揄していたことを軌道修正する、反対に絶賛していたのに批判に転じるケースがみられるなど、柔軟な姿勢を政治評論でも見せています。自らをウルトラ無党派と称し、左派も右派も同じように批判する姿勢は、ある意味政治評論家の中では信頼がおける存在と言えそうです。


現在はTOKYOMXなど地方局に出ることが多くなった田中さん、相変わらずの切り口でユニークに話題を取り上げていくだけでなく、新たな見方を提供する存在になっています。国政にまだ意欲があるのか、そこは定かではありませんが、まだ60代の前半であり、比較的に自由にふるまう田中さんを御せる政党が現れるかどうか、それとも政治評論家の道を歩み続けるのか、今後に注目です。

楠田實 政治評論家

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政治評論家には、様々な経緯を持つ人が少なくありません。意外と多いのが過去に首席秘書官として総理大臣だった政治家を支えた経験を持つ人です。その中の1人が楠田實さんです。1924年11月7日生まれ、鹿児島県出身の楠田實さんは、戦時中は陸軍に入り、中国に従軍します。危険な戦地から復員した楠田さんは早稲田大学に入学し、卒業すると産経新聞社へ記者として入社します。政治部記者となった楠田さんは複数の政治家の番記者を務めますが、なかなかうまくいかず、当時岸内閣で大蔵大臣だった佐藤栄作氏の番記者に。佐藤栄作氏は首相退陣の会見で新聞記者を追い出し、テレビだけに自分の言いたいことを述べるほど、マスコミ嫌いでしたが、そんな中、楠田さんは佐藤栄作氏の信頼を勝ち取り、相当なひいきを受けます。


1964年、まだ30代の楠田さんは、この年の総裁選に備え、佐藤栄作氏の公約を考えるようになります。残念ながらその当時の総裁選で敗れましたが、直後に当時の首相池田勇人氏にガンが見つかり、東京オリンピックを見届けるように退陣し、佐藤栄作氏が後継指名されて、首相に就任。この頃はまだ産経新聞の政治部に所属していた楠田さんは、秘書官になるよう佐藤栄作氏に求められ、新聞記者をやめて秘書官に転身します。秘書官になった楠田さんは政策ブレーンと呼べる人たちに接触した他、有識者会議を立ち上げるなど現在の政治につながるやり方を取り入れます。


長く続いた佐藤内閣が終わり、政治家への転身も失敗、そこで再び裏方として今度は福田赳夫氏をサポートした他、現在の安倍晋三首相の父、安倍晋太郎氏のスピーチライターも務めます。政治評論を行いながらも団体の理事などを務めた楠田さんでしたが、2003年にこの世を去ります。その2年前には楠田實日記と呼ばれる、首席秘書官時代のことが書かれた本が出版されるなど、佐藤栄作氏の人となりから激動の6年間のエピソードが余すことなく書かれてあります。


首席秘書官を務めた後に政治評論の舞台に行くケースには、江田憲司氏などがいますが、いわばそのはしりの人物が楠田さんでした。首席秘書官はいわば権力争いの最先端でありながら、政治の最前線にいられる存在です。そこで何年も支え続け、結果的に長期政権へとつなげていったのは楠田さんの功績も少しばかりはあるとされ、同じような人物は二度と出てこないのではないかと言われています。

菊池久 政治評論家

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政治評論家の世界では、浜田幸一さんのように舌鋒鋭い方も結構多く、政治家に名誉棄損で訴えられるケースも珍しくはありませんでした。その中の1人が菊池久さんです。

1932年2月18日生まれ、岩手県奥州市出身の菊池久さんですが、中学を卒業後、いったんは農協に就職します。中卒で働きだしたものの、過労が原因で入院、しかも労働災害にならなかったことで、権力を前になく人を人でも減らそうとジャーナリストを目指します。ただ、中卒で新聞記者になるのは無謀だったため、病院を抜け出して高校に進学、在学中に論文を応募し、これがきっかけで高校生ながら岩手日報の見習い記者に抜擢されます。学生ながら警察や役場を取材し記事を書くなど、当時もそして今でも異例の道を歩みます。


その後、明治大学を卒業した菊池さんは読売新聞に入社。国会担当となった際には、当時の三木総理の番記者を務めることに。この頃には執筆活動も行うようになり、1977年には「戦後日本の政財界をダメにした4人の首領」を書き、なかなかの評判を生みます。ただ、この時は菊池さんの名前ではなく、ペンネームで出していました。その後、読売新聞を退社した菊池さんは本格的に政治評論家としての活動を開始します。現在も続くサンデーモーニングのコメンテーターとして出演する他、東京スポーツで長らく連載を持つなど、様々な局面で活躍します。


菊池さんはとにかく巨悪に挑み続け、そのためには舌鋒鋭くなるのも避けられず、複数の政治家から名誉棄損で訴えられます。スポーツ平和党の一員だったアントニオ猪木氏からも名誉棄損で訴えられ敗れた他、東京スポーツの紙面上でとある歌手が逮捕されると予告し、結果的に外れたことで菊池さんはその力を失うことになります。


著書には面白いものが多く、自民党を10倍おもしろく見る本や、自民党にあらずんば政治家にあらずなどキャッチーな題名の本を多く出していました。現在に通ずるやり方ですが、毎年のように著作を出していた時期があり、まだ政治家になっていなかった田中真紀子氏の名前と1985年には出すなど、先を見据える力がありました。しかし、2009年、元々体が弱かった菊池さんは77歳の若さでこの世を去ります。しかし、すぐにはこの訃報は報道されず、報道されたのは1年後。報道するのは1年後にしてほしい、菊池さんの遺志により、時期を遅らせてから報道されることになりました。

岩淵辰雄 政治評論家

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政治評論家というポジションは戦後にできたものではなく、昔からあったポジションです。戦前、戦後で活躍した岩淵辰雄さんもその1人です。

1892年1月10日、宮城県で生まれた岩淵辰雄さんは、早稲田大学を中退すると、1928年から読売新聞など複数の新聞で政治記者を務めた後、政治評論家として雑誌での執筆活動に励みます。岩淵さんは、2・26事件以降幅を利かせるようになった統制派とは一線を画す立場にあり、憲兵隊から批判記事を書くのを禁じられるようになります。それでも、岩淵さんは、このままでは日本は戦争で消耗戦を強いられることになりそうであり、責任を政治が負わされると近衛文麿氏に説得するも失敗、結果的に日本は戦争に突入していきます。


1945年、戦争末期の時代、岩淵さんは吉田茂氏らとともに、いかに早く戦争を終わらせるかという動きを強めていきますが、憲兵隊に捕まります。戦争が終わると今度は新憲法の制定に動き、現在の象徴天皇制国民主権を実現させることを構想します。この構想はGHQでも知られるようになり、結果的に今の日本国憲法に少なからぬ影響を与えました。その活躍が評価されたのか、まだ貴族院だった時代に勅選議員に選ばれると、それを境に読売新聞に復帰。主筆として、政治評論の舞台に舞い戻ります。


これ以上戦争のような悲劇を起こしてはならないと、いわゆるハト派として尽力した岩淵さんは、鳩山一郎氏のブレーンとして活動を開始。1954年に首相になった際は自民党の誕生やソビエトとの国交回復といったことに力を入れた他、原子力基本法にも関与。鳩山内閣を支えた岩淵さんは、その後も後の総理大臣となる中曽根康弘氏の抜擢を求めるなど、様々な場面で岩淵さんの存在がクローズアップされます。


戦後間もない時代、毎年のように著書を出し、戦争までの道のりや軍閥政治の評論といったことを進めていった岩淵さん。1962年に国鉄の理事を務めるなど、年齢を重ねるに従って第一線から退き、1975年83歳でこの世を去ります。現在の政治評論家、昭和中期に活躍した政治評論家などは戦争の最中に憲兵隊に捕まるような経験をしておらず、本気で戦争は良くない、言論を守らなければならないという考えには至らない人が目立ちます。むしろ政治評論家の方が好戦的なケースも近年は見られますが、平和を考え、日本の発展のために尽力してきた岩淵さんにとって、令和の政治、政治評論家の働きぶりはどのように映るのか気になるところです。

伊藤昌哉 政治評論家

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政治評論家の中には特定の政治家に仕え、外からコントロールを図ってきた人もいます。その中の1人に昭和に活躍した伊藤昌哉さんがいます。1917年11月21日生まれの伊藤昌哉さん、当時の満州で生まれ、満州事変あたりで日本に戻り、1942年には東京帝国大学法学部、現在の東京大学法学部を卒業します。戦争末期には陸軍の経理部に属していましたが、途中で家族がいる満州に戻ろうとしたところ、収容されてしまい、収容された日本人向けの商売を行うなどして生きて、福岡市へ送還されます。ここで伊藤さんは西日本新聞社に入り、東京支社に。

当時の商工省の担当だった池田さんに運命の出会いがあります。それが当時選挙に出馬し、後に総理大臣となる池田勇人氏です。記者に情報を出さないことで有名だった池田氏、当初は伊藤さんも例外ではありませんでしたが、時間が経つと池田氏も考えを改め、数年後には伊藤さんに様々な情報を流すようになります。政治部デスクとして活躍した伊藤さんでしたが、当時は自民党がなく、池田氏が所属していた政党が下野をしたことをきっかけに伊藤さんも出番がなくなり、結果的に西日本新聞を退社するハメに。

その後、伊藤さんは池田氏の私設秘書のようなポジションで活動をし始め、1958年、池田氏が大臣になるのをきっかけに自らは大臣秘書官に。1960年ついに池田氏が総理大臣となり、首席秘書官として原稿作りなどに携わります。のちに語り継がれる演説なども伊藤さんが作っており、その結果、池田氏の全幅の信頼を勝ち取り、退陣後も他の政治家からの誘いも断り、取締役などを歴任して政治の世界から離れることに。

それでも大平正芳氏からの依頼でアドバイザーとなった他、福田赳夫氏が総理大臣になる際にも裏で活動をするなど、政治評論家としても活躍しながら裏でコントロールしていた伊藤さん。それでも政治の世界は裏切りがつきもので、様々な裏切りも経験しますが、大平氏が亡くなる前日も呼び出しに応えるなど、かなり暗躍した伊藤さん。大平氏が亡くなってからは、自民党の激動の流れを本にまとめ、ベストセラーをマーク。政治評論家としてテレビ出演を果たすなど、活躍します。しかし、2002年、心不全で85歳の生涯に幕を下ろします。政局の判断と人間の情を重んじる姿勢が多くの政治家から評価された伊藤さん、現代にはなかなかいない傑出した存在だったことが言えそうです。

辛坊治郎 政治評論家

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関西で人気を博し、東京に進出して知名度を重ねるケースは昔からありますが、現在も第一線で活躍をし続ける政治評論家に辛坊治郎さんがいます。

1956年4月11日生まれ、63歳の辛坊治郎さんは、鳥取県米子市出身です。埼玉県入間市育ちという辛坊さん、父親は自衛隊員で、転勤で米子から入間に生後2か月の時に移り住みます。

早稲田大学法学部を卒業した辛坊さんは埼玉県庁や住友商事といった大企業の内定をもらいながら、フジテレビのアナウンサー募集に参加、最終面接で落選したものの、それを読売テレビが聞きつけ、面接を受け合格。中学時代に経験したテレビ局の親身な対応などもあって、読売テレビへの入社を決断します。

アナウンサーとして入社した辛坊さんはズームイン朝の大阪担当として出続け、1991年からスタートし、現在も続いているウェークアップ!の司会に抜擢されます。ウェークアップ!は桂文珍氏に司会が変わり、降板から12年後復帰を果たします。


政治に詳しくなるのは、1997年報道局解説委員に転身してからで、その後報道局チーフプロデュサーとなり、報道に携わり続け、辛坊さんが自ら出演してかなり分かりやすいニュース解説を行ったことで、その番組を視聴率トップに押し上げます。

報道局情報番組部長に就任すると、翌年ズームインSUPERがスタート、新聞やニュースの解説を行うレギュラーとして出続ける他、同時期に放送が開始された、たかじんのそこまで言って委員会の司会になるなど忙しい日々を過ごします。政治経済なんでも分かりやすく、聞きやすく紹介する政治評論の姿勢は多くの視聴者に支持されています。


基本的にスタンスは中立でありながらも、若干政権寄りなところがある辛坊さん。特に関西では、大阪維新の会が勢力を握っている関係で、大阪維新寄りのスタンスを鮮明にするなど、大阪維新の大躍進に一役買ったといっても過言ではありません。

リニューアルされたウェークアップ!ぷらすには大阪維新の関係者が出演するなど、中立とは思えない姿、意見を出しています。埼玉県に住みながら大阪の雰囲気に順応できたのは、生活環境が関西仕様だったためで、全く違和感がないのはそのためです。

ヨットでの太平洋横断では海上自衛隊に救助される出来事があるなど、波乱万丈な人生を送る辛坊さん。現在はそこまで言って委員会NPの司会を行いながら、テレビラジオで精力的に登場し、政治評論を行うなど、その姿は全国で見ることができます。

二木啓孝 政治評論家

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政治評論家には様々おり、政権などに近づく人もいれば、反権力をメインにする人もいます。比較的反権力側で論評を行っているのが二木啓孝さんです。

1949年11月29日生まれ、70歳を迎える二木啓孝さんは鹿児島県の出身です。二木さんの学生時代はいわゆる学生運動全盛の時代、明治大学在籍中は主に学生運動に力を入れ、現場の最前線にいるなど過激な一面を持ち合わせていました。その後、明治大学を除籍になると長距離のトラック運転手として生計を立て、28歳に週刊ポスト専属のライターとなり、34歳の時、日刊現代に入社します。

日刊ゲンダイを発行している会社であり、二木さんはニュース編集部部長を務めるなど、日刊ゲンダイの編集に携わり、常に政権を批判するという日刊ゲンダイらしさを確立させます。その後、2007年に日刊現代を退職すると、日本BS放送の取締役となり、報道局長を務めるなど、独自の活躍をするようになって今に至ります。


日刊ゲンダイの記者として働いていた時は昼に出勤して、夜の締め切りに備え、次の日はテレビやラジオに出演するというハードな日程をこなしていた二木さん。取材はかなり精力的に行っていた一方、記事によっては適当に書いていたこともあったと告白しています。自民党など保守政党に対して、可なり辛らつに、あまりきれいではない表現でこき下ろすことが多かった一方、リベラル系の政党に対してはほとんどそのような表現をせずに書くなど、明らかな反権力よりだった二木さん。学生運動の時と傾向はあまり変わらず、現在でもそのスタンスは変わっていません。

現在は自身が取締役を務める日本BS放送での報道番組に出演、2019年1月からはBS11の解説委員として報道ライブ インサイドOUTのメインキャスターに抜擢されています。


発言が政権寄りではないことから東京などではあまり出ることができず、主に関西を中心に活動するほか、地方のラジオ番組などで政治などのコメントをすることが多い二木さん。過去には作家として、「手に取るように政治が分かる本」というタイトルで政治をわかりやすく伝えるような本を書いています。

また政治に関する本もいくつか残すなど、執筆で勝負をしてきた人だからこそ、その本もまた刺激的なものが目立ちます。ここ最近は政権寄りなコメンテーターが多く、二木さんのような立場の人は明らかに少数派です。だからこそ、多くの人に響くような多少辛辣な言葉を並べているように感じます。